北九州の旅
福岡講演会の翌日、時間がとれたので北九州を旅することにした。熊本城を訪れた後、阿蘇岳に登り、翌日、別府、湯布院を訪ねた。
加藤清正公が建造した熊本城へは一度訪ねてみたいと思っていた。それは、熊本城は信州松本城を模範にして建造されたと言われているからである。西南戦争直前の明治10年(1877年)に天守閣と共に焼失してしまったが、石垣はそのまま残されており、優美にして堅牢(けんろう)なその姿を目の当たりにすることが出来た。
「清正流」と呼ばれ江戸時代から名を馳(は)せていたその石垣は、下段は緩い傾斜で上り下りが容易に出来るが、上段に至ると完全に垂直になっており、しかも建物がせり出していて城内に侵入することが出来ないように設計されている。城攻めが難しいしと言われる所以(ゆえん)である。
城の素晴らしさにも増して驚かされたのが、本丸御殿の中の「昭君の間(しょうくんのま)」と呼ばれる部屋であった。そこの壁や襖には、加藤清正公が描かせた、中国の漢の時代、胡の国に送られた絶世の美女・王昭君の物語の絢爛豪華な38枚の絵図が見事に再現されていた。
「昭君の間」の名の由来はそこに描かれた「王昭君の物語」から来ているとされているが、豊臣秀吉子飼いの武将であった加藤清正公は、秀吉の遺児である秀頼が万が一のときは、この部屋にかくまうことを考えていたようで、その時には、この部屋は昭君ならぬ「将軍の部屋」となることから、その名が付けられたとも言われている。
それゆえ、部屋と城外とは秘密の通路でつながれていたらしく、その真相が築城に携わった大工の棟梁の手記に残されている。
熊本城の歴史
千葉城・隈本城時代
文明年間(1469年-1487年)に肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が千葉城(ちばじょう、現在の千葉城町)を築いたのが始まりである。その後、出田氏の力が衰え、大永・享禄年間(1521年
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1531年)に菊池氏は代わりに託麻・飽田・山本・玉名4郡に所領を持つ鹿子木親員(寂心)に隈本城(くまもとじょう、現在の古城町)を築かせた。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐に際し、隈本城主城久基は城を明け渡し筑後国に移った。新たに肥後の領主となり隈本城に入った佐々成政は、秀吉の指示に反して検地を強行し、肥後国衆一揆を引き起こす。天正16年(1588年)、成政は切腹を命じられ、加藤清正が肥後北半国19万5000石の領主となり隈本城に入った。
熊本城時代
加藤清正は、天正19年(1591年)から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめる。松本城の美しさを基に築城されたという。慶長5年(1600年)頃には天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となった。慶長11年(1606年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた。
その後、嘉永10〜12年(1633〜1635年)頃にかけて細川忠利によって増改築がなされており、これが現在の熊本城である。慶長15年(1610年)から、通路によって南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の建築が行われた。これにより天守に上がるには、本丸御殿下の地下通路を通らなければならないようになった。