先住民族承認決議案の採択

    

《 サパウンペ[幣冠]をかぶったアイヌの長老 》

アイヌ民族博物館パンフより転写(故・木下清蔵氏撮影)
 

6月7日、「政府はアイヌの人々を先住民族として認めること」を求める国会決議が衆参両院本会議で採択された。

昨年9月、国連総会で、政治、経済、社会的な自決権や同意なくして没収された土地・資源の権利など46条に渡って定めた先住民の権利宣言が採択されことと、7月にアイヌの地元で北海道洞爺湖サミットが開催されることが追い風となって、アイヌの人々の悲願であった先住民族としての諸々の権利が認められるところとなった 、というわけである。

北海道選出の町村官房長官が記者会見で述べた「北海道的に言うならば、昔からこの地はアイヌ民族の土地だった。素直に言えば、先住民族であると政府として考えていることである」という談話を聞いていると、至極当たり前のことが、何で今頃まで認められずに来たのだろうかと首をかしげたくなってくる。

アイヌの人々が北海道ばかりか東北や樺太(からふと)に住んでいたことは江戸末期の歴史にはっきりとな残されており、現に明治に入って松前藩や伊達藩などが北海道の地 で入植を始めた時、 彼ら先住民たちの手を、半強制的に借りたのは紛れもない事実である。

さらに歴史をさかのぼれば、アイヌの人々は古くは『古事記』や『日本書紀』に、蝦夷(えみし)として登場している。古事記の中巻のヤマトタケルが登場する箇所には、「東のまつろわぬひとども(服従しない人々)を平らげた」と か、日本書紀の神武天応の箇所には、「えみし一人で百人に当たると人は言うけれども抵抗もしない」などと、彼らとの接触の様子が書かれている。

また、日本書紀にはそのほかの箇所にもしばしば蝦夷(えみし)と漢字で登場し、斉明天皇の時代に阿倍臣比良羅夫が、アキタ、ヌシロ、ツガル、イブリサエなどの蝦夷を討ったことも書かれている。こうした記録を読むと、彼らが北陸から東北にかけ広く住んでいた先住民であることや、後代に移住してきた倭人(和人)たちによって、次第に東北から北海道へと追いやられたことがわかる。
 

差別と人権侵害、それが、世界の先住・少数民族の近代史である
 

オーストラリアの
アポリジニー

 

ゴマアザラシをしとめた
イヌイット

 

民族の歌を歌う
クスコのインカの女性

鼻を突けて挨拶をする
ニュージーランドの
マオリ族

 

 

中国の少数民族
ウイグル族

 

中国の少数民族
モンゴル族

中国の少数民族
チベット族

丸木船の上でマリモを高く上げ
湖へと送るアイヌの長老

                                                       〈 毎日JPニュースから転載 〉
 

国連の推計では、世界70ヶ国以上に3億人の先住民たちが暮らしている。その代表的な民族が、ホピ族をはじめとした北米インディアン、北極圏のイヌイット、中米のマヤ族、南米ペルーのインカ族、オーストラリアのアポロジニー、ニュージーランドのマオリ族、そして我が国のアイヌ族である。

彼らは皆、その文化や環境には大きな違いがあるものの、どれもが、数千年にわたる長大な歴史を持っている。しかし、その近代史は、コロンブス到達移行のアメリカ大陸の状況に象徴されるように、虐殺と弾圧、差別と搾取の歴史である。

先に招聘(しょうへい)したマヤ族の最高神官ドン・アレハンドロの話を聞くと、彼らが受けてきた人権侵害や大規模開発による生活環境の破壊、強制移住、貧困など がいかにひどいものであったかが実感できる。それらは、まさに侵略者に他ならない我々が、今日の環境問題を含めて、近代社会のほとんどすべての矛盾を押しつけた結果であることが分かる。

彼ら先住民の多くは、数千年の長きにわたって営々と続けてきた伝統的な生活様式や神事や祭祀、さらには、言語までもが、侵略者たちの思惑によって消されて来てしまっている のだ。ホピにしろマヤにしろ、今彼らの若い世代の多くは自分たちの言語を忘れてしまい、話せるのは英語であり、スペイン語になってしまっている。

言語が失われてしまった民族にとって、自分たちの伝統や文化を保持することが、いかに至難の技かは想像に難くない。現に、母族語を失わされ、大和言葉を使うようになってしまったアイヌの人々からは、多くの伝統や文化が失われてきてしまっている。

わずか数百年の歴史しかない、新参者のアメリカ人やスペイン系人、オーストラリア人たちが、1万年余の歴史を持つホピ族やマヤ族やアポリジニーを足下においているのだから、おかしな話である。しかし 、我々日本人とて彼らを批判できる立場ではない。今日の豊かな生活や安定した暮らしが、彼らの血の出るような苦しみや悲しみの上に成り立って来ていることには変わりはないからである。

根中治氏が『九州の先住民はアイヌ』の中で述べている次の一文が、征服者の非道な歴史をズバリ言い表している。 

 過去、何十冊かの本で、アメリカの開拓史、現代史、インディアンの歴史を読んで感じたことは、侵入者の白人たち が先住民インディアンに対してとった目にあまる行動である。アメリカの開拓史は一言にしていえば暴虐と非道の歴史であったとの一語に尽きる。

 彼らの欺瞞と残虐な行動に対して激しい怒りを感じ、敗残のインディアンの生活に涙したことを今も忘れない。その同じ思いを私はアイヌの上に感じる。日本人が先住民族であるアイヌ人にとった行動はまさにアメリカの白人達がとった行動と全く同じである。シャモはアイヌの土地を一方的に奪い、その生活と歴史と文化を押し潰してしまった。

ここ数年、国連機構を中心とした国際社会が彼らの失われた自決権や土地獲得権、貧困と差別の実態を真剣に議論するようになったのは、征服者の心に己の非を自覚する気持ちがわいてきたからに他ならない。日本の社会 も、遅ればせながらが、そういった情勢の変化に気づき始めたことは結構なことである。

政府は、今回の法案の成立に当たって、土地・資源の保証や財政支援を受ける権利の過大な要求を懸念しているようであるが、私はそんなことをあまり心配する必要はないのではないかと 思っている。なぜならば、彼らアイヌ人たちは先祖代々、必要以上の所有欲を持たない民族であるからだ。

彼らは、人間の暮らしは神々からの贈り物で成り立っており、住む土地は勿論のこと、海の幸も山の幸もみな天(神々)の所有物だという考えを持っている。それゆえ、 土地や自然の産物を自分の所有物として独り占めするという考え方は彼らにはない。ここが今日の我々が当たり前と思って保持している所有権や所有欲と大きく異なる点である。

勿論、彼らとて、物質文明隆盛の今の時代を生きていく限り、必要な土地や住まい、最低限の収入は求めざるを得まい。しかし、彼らが今一番求めているのは、自分たちの先住民族としての 誇りある歴史と認めてもらい、同じ同胞として差別をなくし、民族としての尊厳を回復してもらうことではないだろうか。

北海道が2006年に実施した生活実態調査では、道内に2万3782人のアイヌ人が居住しており、生活保護を受けている人の率は全国平均の約3倍、短大・大学の進学率は3分の1という結果が出ている。 アイヌやホピ、アポリジニーたちに比べればまだましのほうであるが、大きな差別や格差が広がっていることは間違いない。

一日も早く、偏見から生じている差別や極度の生活苦から解放され、若者たちが望む職に就き、進みたい学校へ進めるようになることを、願わずにはいられない。同じウタリ(同胞)として共に手を携え、 やがて到来する「新生地球」の誕生に向けて実りある人生を過ごしたいものである。

 

 

道内に住む2万6000人余のアイヌの人々が最も多く住んでいるのが、北海道の白老(しらおい)・登別(のぼりべつ)地方と日高地方である。

先日、札幌講演会の折りに洞爺湖を訪ねる途中、その白老市にあるアイヌ民族博物館に立ち寄り、数時間を過ごしてきたが、それは、アイヌの人々の歴史を学び、彼らの心を知る上で貴重な一時であった。

アイヌの文化遺産を保存公開するために、1965年に白老市街地にあったアイヌ集落をポトロ湖畔に移設・復元したのが、アイヌ民族博物館である。そこには、5軒の茅葺きのチセ と呼ばれる建物や博物館、植物園などがありポロトコタン の名で親しまれている。

アイヌ語でポロは「大きい」、コは「湖」、コタンは「集落・村」を意味する。つまり、ポロトコタンとは「大きな湖の近くになる集落」という意味である。因みに 、アイヌとは、もともと「人間」を意味するアイヌ語である。従って彼らをアイヌ人と呼ぶなら、我々もまたアイヌ人ということになってしまう。

コロンブス一行がユカタン半島沖でメキシコの先住民とはじめて遭遇したとき、丸木船に乗った彼れに「おまえたちは何処からきたのか」と聞いたら、「マヤム(むこうから)」と答えたことから、彼らをマヤ人と呼ぶようになり、今もなおそう呼び続けているのであるが、アイヌ語の説明を聞きながら、私はその話を思い出していた。

蝦夷地と呼ばれた北海道の多くの地に、アイヌの人々が古くから先住民として暮らしていたことを物語るのが、今日我々が使っている道内各地の町や湖、島などの呼称である。その多くはアイヌ語から来ており、移住者は先住民たちが使っていたその土地土地の呼称を 聞いて、それを一度カタカナで表示した後、漢字を当てはめている。

その代表的な事例を下に列記したので、見て欲しい。よくこんな漢字を探して、当てはめたものだと感心する。
 

白老 ・・・・・・ シラウ・オイ「あぶ・多い所」ではないかといわれている。
登別 ・・・・・・  ヌプ・ペッ「濁った・川」。かつては硫黄泉が川に流れ込んで、水が濁っていたといわれて いる

苫小牧

・・・・・・  原名はマコマイ「山の方に入っているもの(川)」。頭にトー「湖」がついて現在の名前になったらしい。
支笏湖
・・・・・・  シ・コッ「大きい・谷間」。これは千歳川の原名である。この川が流れ出してくる湖なのでこの名が
      ついたとされている。

千歳

・・・・・・  シコッは死骨に通じて縁起が悪いという理由で、和人が後に改名したためにできた地名である。

ニセコ
アンヌプリ

・・・・・・  ニセイ・コ・アン・ペッ「絶壁・に向かって・いる・川」の上にある山という意味。
札幌
・・・・・・  古くは川の名前だった。サッ・ポロ・ペッ「乾く・大きな・川」あるいはサリ・ポロ・ペッ「その葦原が・
      大きな・川」という説がある。
 
旭川 ・・・・・・  市内に忠別川という川が流れていて、これが旭川という名の由来になっている。チュ・ペッ
      「太陽の・川」という解釈から生まれた地名であったが、古い記録にはチュ・ペッ「秋の・川」と
      書かれている。

室蘭

・・・・・・  モ・ルエラン「小さい・坂」。

洞爺湖

・・・・・・  トー・ヤ「沼・岸」。

小樽

・・・・・・  オタ・ル・ナイ「砂・道・川」とかオタ・オ・ナイ「砂浜の・中の・川」などの説がある。

層雲別

・・・・・・  ソー・ウン・ペッ「滝・のある・川」。

襟裳岬

・・・・・・  エン・ル「突き出ている・岬」。

知床

・・・・・・  シ・エト「大地の・先」。

利尻島

・・・・・・  リ・シ「高い・島」。

礼文島
・・・・・・  レプン「沖」の島。

                                       (アイヌ民族博物館ホームページ・「アイヌ語地名」欄から引用)

参考文献 : アイヌの歴史と文化(榎本進編 創童社刊)/アイヌ文化の基礎知識(アイヌ民族館監修 草風社刊)/
         古代蝦夷とアイヌ(金田一京助 平凡社ライブラリー刊)/木下清蔵遺作写真集「シラオイコタン」  /
         アイヌ民族博物館ホームページ

 

アイヌ民族博物館

それでは、アイヌ民族博物館で撮影した写真を、掲載したのでご覧頂きたい。

 写真@

写真A

写真B

写真C

写真D

アイヌ民族博物館
の入り口

 

 

 

 

 

 

 

 

 


家の造り

家(チセ)は、茅、ヨシ、笹、樹皮などを用いて、長軸が東西を向くように建てられ、西側には玄関兼物置(セム)がついていた。

一般の人々の住む家の広さは、おおよそ奥行き7m×幅5m。族長の家は、一回り大きかったようである。

家族構成は親子2世代、親子孫の3世代同居。子供たちが成長し家が狭くなると、長男から順に別に家を建てて独立しり、祖父母が家の近くに小さな別棟を建てて住んだ。

窓は3つあり、そのうち入って正面(東)にある窓はロルンプヤ といわれ、神々が出入りする窓、また儀礼のとき用いる道具を出し入れする窓として神聖視され、決して覗いたりしてはいけないとされていた。

     (写真Bは『蝦夷島奇観』より転写)

 

 
 


家の内部

家の中に入ると、入口の近くに炉が切ってあり、炉の中には、火バサミ、灰ならし、灯火用具などがおいてあり、さらに炉の北東角には火の神様に捧げられたイナウ(木幣)が立っていた。

炉の上には、肉や魚を干して薫製にするための炉だなが家の梁からつり下げられていて、その中央から鍋をつるすための炉鉤が下げられていた。

家の主人夫婦は炉の右座(シソ)に座り、子供たちや客人は左座(ハり キソ)に座るのが習わしであった。

儀式の時、女性は上座(ロルンソ)に座ってはならないとされていた。

シソの奥にはイヨイキ とよばれる宝壇があり、和人との交易などによって得た行器や杯、刀、鉢、矢筒などの宝物が置かれていた。

(写真Dは『アイヌ文化の基礎知識』より転写)

 

 

 

写真E

写真F

写真G

写真H

写真I

 


踊り

アイヌの人々は、神々への感謝の気持ちと、自分たちの喜びと悲しみを神々と分かち合うために、様々な機会に踊ってきた。
 

 

 

 

 

 (写真F、Iは『蝦夷島奇観』より転写)

 

 
 
 


鮭の皮で作った長靴

この長靴を見ていると、アイヌの人々の持っていた知恵と技の素晴らしさに驚かされる。

 


 

 

 

 

 

 


トンコリ(カー)

世界の先住民の中で楽器を持たない民族は先ずいないだろう。

アイヌの楽器の中では口琴とか口琵琶と呼ばれる「ムックリ」が有名であるが、トンコリもよく演奏される楽器であったようだ。

樺太アイヌではトンコリと呼ばれ、北海道では北西部のみに存在し、カーと呼ばれた。(カーは糸と弦のこと)

長さは1m前後、幅が15センチほどの竪琴で、3弦、4弦、5弦の3種類があり、腰を下ろし肩にかけて指で演奏する。

トドマツ、イチイ、ナナカマド、ホウノキなどの素材から作られる。

写真Iの左下段と右下段はムックリとトンコリを弾く人。
 

 

 

   

写真J


  

写真K


写真L


写真M

 
 

アイヌの装身具
タマサイ

大切な儀式の時には、女性は玉飾りや耳飾り、首飾り、腕飾りをして、鉢巻きをした。

写真はタマサイというガラス玉が使われた胸までとどく首飾り。

タマサイは大陸からもたらされた交易品である一方、松前藩が密かにつくってアイヌ民族にもたらしたものもあった。

 

 
 

アイヌの衣服

アイヌ民族の伝統的な衣服を素材別に大別すると、

@ クマ、シカ、キツネ、イヌ、アザラシなどの皮から作った獣皮衣

A 海鳥、水鳥の皮で作った鳥羽衣

B サケ、マスの皮で作った魚皮衣

C 樹木の繊維からつくった樹皮衣

D 草の繊維から作った草皮衣

これらのうち、@〜Bの伝統は現在には伝えられていない。

この他に、外来の衣服としては木綿衣がある。

 

写真Lは「アイヌの歴史と文化」Uより転写)

 
 


樹皮衣

写真左は、今日伝えられている代表的な樹皮衣で、そのなかでも一般的に知られているアットゥ 織。これはオヒョウなどの木の樹脂からとった繊維によって織られた衣服である。

草皮衣

写真中は、イラクサの繊維で織ったもので色が白く、レタペ(白いもの)と呼ばれている。これは樺太アイヌが多く用いた衣服で、これらは切伏や刺繍文様を施して晴れ着として着用される一方、文様のない普段着としても着用されていた。

木綿衣

写真右は、木綿衣の一つで、細い切伏布をおいて精巧に刺繍されたルウンペと呼ばれる衣服。太平洋の噴火湾沿岸及び室蘭、白老、登別などの限られた地域にしかその伝統は残されていない。
 

 

 

                
               次回はアイヌの入れ墨と服飾文様からみた琉球諸島とのつながりを掲載します