「吉野ヶ里遺跡」を訪ねる
一度、見学してみたいと思っていた吉野ヶ里遺跡を訪ねることが出来た。
佐賀県神埼市(かんざきし)から吉野ヶ里町にまたがる丘陵地帯に広がる遺跡、それが「吉野ヶ里遺跡」である。大正時代の末期から昭和時代のはじめにかけて、地元佐賀県や福岡県の研究者に注目され
て,、学術雑誌などにその概要が報告されてはいたものの、圏外の研究者たちには特段関心を持たれることはなかったようだ。
ところが、1986年に工業団地計画による発掘調査が開始され、1989年に広大な住居跡が発見されて、「魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の集落と同じ作り」と紹介されるや、一躍全国的に注目を集めるところなった。
吉野ヶ里一帯に、人が住み始めたのは2万年前の旧石器時代までさかのぼる。弥生時代に入ると、次第に人口が増え始め、その頃から集落を取り囲む大規模な環壕
(かんごう)が造られ出したよう
である。その広さも、弥生前期には2.5ヘクタール規模の集落であったが、弥生中期には20ヘクタール規模に発展し、後期には40ヘクタールを超す国内最大規模の環壕集落へと発展してい
った。
訪ねてみて、先ず驚かされるのは、遺跡の広さである。59ヘクタールの広大な遺跡は、平成3年5月に特別史跡に指定され
、現在は、第2期保存工事が始まっている。
発掘された住居跡には復元された建物が建ち並び、壕や柵が巡らされた幾つかの集落は太古の時代を蘇(よみがえ)らせている。夕方
、見学者の姿が消えた閉門間近に、遺跡のはずれの高台からその姿をを眺め
ていると、2000年の時をさかのぼり、弥生時代へとタイムトラベルしたのではないかと錯覚するほどだ。
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米作り 米作りは弥生時代に中国や朝鮮半島から伝わってきた
といわれている。吉野ヶ里では現在まで、水田の遺構は発見されていないが、水田を耕したり、水路を造ったりする鍬(くわ)や鋤(すき)、収穫を行なう石包丁、収穫した米(籾)を脱穀する臼(うす)や杵(きね)などの工具が発見されているいることから、米作りが行なわれていたことは確かなようである。
稲の栽培法には直播法(じきまき)と栽培(田植え)法の2種類があるが、稲作が始まった弥生時代には直播法が行なわれたと考えらてきたが、岡山県の百間川(ひゃくけんがわ)遺跡に、田植えの跡と思われる稲株跡が発見されたことから、吉野ヶ里でも田植えが行なわれていた可能性が大きくなってきている。
吉野ヶ里遺跡から出土した炭化米は、現在私たちが食べているお米と同じ種類のものであることから、白米の他に赤米や紫米なども栽培されていたようである。見学に訪れた時、遺跡内の一角で、古代米の「ベニロマン」が栽培され、見事な紫色の穂を実らせていた。
住まいと暮らし
吉野ヶ里の人々は、地面を長方形に掘って床を作り、2〜4本の柱を建てその上に屋根をかけた竪穴住居に住んでいた。竪穴住居の内部は、20〜25平米とわりに広く、夏は涼しく冬は暖かく、我々の想像以上に暮らしやすい家だったようだ。
また、食事はお米などをカメで煮炊きし、鉢などによそって食べていた。おかずには、イノシシの肉やカキ、アカガイ、アカニシなどの貝類、焼き魚、ドングリやキノコなどがあって、しじみ汁や桃などの果物も食べられていたようだ。
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優れた技術
建築技術
遺跡内には色々な建物が復元されているが、これらの建物を建てるために使われた「鉄斧」や「ノミ」、「ヤリガンナ」などの優れた工具、が発見されている。工具だけでなく、木を加工する技術も優れており、今の大工さんが驚くほどの技術を持っていたようだ。
土器技術
この時代には、使い方に応じた様々な形、大きさの土器が造られていた。縄文土器に比べて模様も洗練されて、薄く、整った形をしている。特に祭祀用(お祭り)の土器は、表面を種に塗りていねいに仕上げられている。また、埋葬用の甕棺(かめかん)は、1メートルを超えるものもあり、完成するのに何日もかかったようだ。
鋳造技術
青銅器の製造技術は弥生時代に大陸から伝えられたとされているが、吉野ヶ里遺跡では、いち早く青銅器の生産が行なわれていたらしく、青銅器づくりに使用される銅剣・銅矛の型、溶けた銅をくみ出す取り瓶(とりべ)、錫の固まりなどが数多く出土している。
銅鐸の鋳型(いがた)は北九州で発見されていたものの、銅鐸そのものがこれまで発見されていなかったために、銅鐸は九州で造られて主に中国地方へ送られていたものと考えられていた。しかし、吉野ヶ里遺跡から発見されたことにより、銅鐸の分布圏外とされていた九州でも、銅鐸を使った祀り(まつり)が行なわれていたことが明らかとなった。
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中広形銅戈(なかひろがたどうか)
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吉野ヶ里の福田形銅鐸(どうたく)
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織物技術
弥生時代の人々は、麻や絹で造った服を着ていたとされているが、吉野ヶ里遺跡の甕棺(かめかん)からも麻や絹の布片が出土している。それらの織物は、植物からとった日本茜(にほんあかね)や、アカニシやイボニシなどの巻き貝の色素からとった貝紫(かいむらさき)を用いて、朱色や紫色に染めらていた。それらは身分の高い上層人が着用していたものと思われるが、復元された衣装を見るとその艶やかさに驚かされる。
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機織り(はたおり)の様子
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弥生時代上層人の艶やかな衣服(想像図)
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村同士の戦い
弥生時代に入り、米作りが始まると、土地の開墾や所有、水田に引く水の管理などで争い事が起き始めた。また収穫したお米を奪い取られないように守る必要性も生じてきた。そのために、吉野ヶ里では、外敵からの攻撃から守るために二重の壕が(ほり)が掘られ、壕の片側に柵が張り巡らされたり、物見櫓(ものみやぐら)が建てられた。
発見された甕棺(かめかん)には、頭部のない人骨や多数の矢じりが刺さった人骨が埋葬されているが、これらは戦いの犠牲者と考えられている。
魏志倭人伝には、「宮室・楼閣・城柵、厳かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す」(「宮殿や・物見櫓・城柵などが厳重に設けられ、常に武器を持った人々がこれを警備していた)と記されている。弥生時代は文化が発展する一方で、戦いの時代でもあったようだ。
参考文献 : 「なぜ・なに? 吉野ヶ里遺跡」(佐賀県教育委員会編集)
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