「ワロ博物館」 を訪ねる

今回の探索の一番の目的は、カブレラストーンの線刻年代の鑑定であるが、持ち帰った鑑定書の翻訳に時間がかかるので、先にクスコの旅の報告から始めることにしよう。

インカ時代の首都「クスコ」から南に車でおよそ40分ほどの場所にワロ(Huaro)と呼ばれる寒村がある。その村の畑から出土した発掘物を展示しているのがワロ博物館である。

小さく簡素な博物館を管理しているのはレナト・ダビラ・エリケルメ館長。氏はクスコ大学で考古学の教鞭を執っていた人物であるが、象牙の塔になじまず、大学を途中で退職し、ワロ遺跡の発掘に取り組んだ異色の人物である。

博物館には十数センチから1メートルほどの大小さまざまな石が展示されている。これらの石の特徴の一つは、表面に奇妙な文字が彫られている点である。その文字は、世界の各地からこれまで発掘され、使われた時代が特定出来ずにいる不思議な文字と同様、解読が進んでいない。

村の古老がエリケメル館長に語ったところでは、かってこの村の周辺には文字の書かれた石が壁のように高く積まれていたという。ところが、16世紀後半、インカを征服したスペイン人がやってきて、これれの石垣をすべて取り崩したのだという。「写真2」はその復元図である。

Huaro(ワロ)という名前は、ケチュア語で「石の集まった場所」という意味である。どうやら地名からして、この村一帯にはかって大規模な石壁や石造りの建造物などなどが残されていたようだ。

インカ時代には文字が使われていなかったとされている。事実、今日までインカ時代の遺物からは文字の類は一切発見されていない。(最近インカの皇室で使われていた織物の模様の中に、文字が織り込まれていたと発表した女性研究家がいる。今回の旅で訪ねて見せてもらったが、石に刻まれた文字とはまったく異種のものであった)

となると、不思議な文字の刻まれた石壁はインカ時代のものでないことは確かである。現にその地に長く住むインディオたちの伝承は、彼らがこの地に住み着くようになった時には、石壁や散在する石は既に存在していたことを伝えている。

彼らは廃墟となった都市跡と、崩れかかった石壁の一部が残されたこの地を、「石の集まった場所」・ワロと呼んで住み着くようになったようだ。

館内に展示されている奇妙な石は、恐らくそれらの石の一部であったと思われる。文字を刻んだ石は畑の中、深さが50−60センチのところから発掘されているが、後述する別のタイプの石は地下2〜3メートルの深さから発見されているところをみると、太古の遺物であることがわかる。

不思議なことに、奇妙な文字の中には、エジプトのフャラオの王冠に着けられていた文様(写真3)や、太古の「クルト文明」や「マヤ文明」時代に使われていた文字によく似ているものがある。(写真4)(写真5)。(私はまだその事実を確認していないが、館長自身は確かめているようだ。)

一般的にはクルト文明はインド・ヨーロッパ族の一支族の築いた文明とされているが、私はその源流については、「ストーンヘンジ」を造り、最古の文字「オガム文字」を残した太古の文明、セルティック(Celtics)文明にたどり着くのではないかと考えている。

アイルランドとやスコットランドのクルト人の伝承として、巨人神話や地下の楽園都市神話が語り伝えられているのも興味深い。

クルト文明が西ヨーロッパ、エジプト文明がアフリカ大陸にあり、マヤ文明が中米であることを考えると、ワロ遺跡に「石文字」を残した人々は、西欧やエジプト、中米など世界各地に散在した古代文明の祖先と共通の祖先にたどり着くことになりそうだ。

また彼らは、マチュピチュやサクサイワマン、それにボリビアのティアナコ遺跡などに驚異的な巨石建造物を残したアンデス文明の源流につながる可能性もある。      

 * ストーンヘンジ     
(Stonehenge) 
 
 
イギリス、イングランド南部、ソールズベリー平野にあるヨーロッパ随一の巨石建造物。30メートルの演習場に30個の巨石を立てべ、この立石の上に横に巨石をのせている。立石の重さは一個が20〜45トン、横石は7〜10トン。新石器時代後期に造られたとされているが、確かなことはわかっていない。

サルセン石と呼ばれる巨石は30キロも離れたところから運ばれたとされているが、その運搬方法については今も謎である。

ワロ遺跡の「オーパーツ」

それを裏付けるのが、展示石のもう一つの特徴である石に掘られた円筒形の穴である。写真6を見て頂ければわかるように、およそ30センチの立方体の石に見事に丸い穴が開けられている。

真横から覗いて見るとその穴が真円に近いことがわかる。しかも驚くのは、直径が6・5センチほどの穴の中に指を入れてみると、その表面が非常になめらかなことだ。

館長によると、この石は花崗岩だというから相当硬い石である。その石にこれだけの穴を開けるには、ダイヤモンドやエメラルド、ルビーなどの硬度が8〜10の硬い刃を用いなければ無理である。それもノミのような物で縦に彫り刻んでいったのでは、穴の内壁がこれだけのなめらかにはならない。

さらに驚かされるのが、横に置かれたいま一つの不思議な石である。その石は(写真7)の左図のように直角に曲がった石で、掘られた穴は上面から下へ、さらに方向を90度変え、真横へと貫かれている。

調査の結果、およそ40センチほど彫られた縦穴は途中から緩やかなカーブを描いて横向きになり、60センチほどの横穴を形成していることがわかった。穴の直径はおよそ7センチほど、穴の内壁は先ほどの石と同様、非常になめらかである。まさにワロの「オーパーツ」だ!

なんと言っても不思議なのが、穴が途中で弧を描いて曲がっていることだ。一体いかなる道具を用い、どんな方法で掘り抜いたのだろうか? はっきりしていることは、この見事な円錐形の穴を1メートルにわたって掘り抜いた道具は決してノミなどではないということだ。

ノミによる縦彫りでは途中で円弧を描くのことなど出来るはずがないし、穴の表面をこれほどなめらかにすることなど不可能だ。

インカ以前、一番硬い刃物といえば青銅であった。しかし、青銅では花崗岩にはとても歯が立たない。考えられる工具は、工業用のダイヤモンドに匹敵する堅さの刃を持った回転式の円形ドリルである。

しかし、仮に当時、そうした工具が存在したとしても、問題は花崗岩を掘削するために必要な強い圧力と超高速の回転運動をどうやって得ていたかという点である。なにしろ、ドリルには1トン以上の圧力と毎分数十万回の回転速度が必要となってくるからである。

そのようなハイテクノロジーがプレ・インカ時代に存在した証拠は何もない。となると、展示された石が失われた先史文明の遺物である可能性を否定するわけにはいかなくなってくる。

かって存在したハイテクノロジーを持った先史文明は地球的規模の大洪水で滅亡。一部の人間は大カタスロフィーを生き延びることができた、彼らは世界の各地に散り文明の再興を計った。その子孫が後のエジプト、クルト、マヤ、インカ文明へとつながったしたら、それらの遺跡から発見される不思議な「オーパーツ」の謎は一気に解けてくる。

 

 

huaro1-1.JPG (64732 バイト)

huaro1-2.JPG (49115 バイト)

huaro1-7.JPG (22438 バイト)

huaro1-4.JPG (39920 バイト)

写真1

ワロ博物館入り口

 

写真2

発見された石は本来
こうした形で石積み
されていたようだ

 

写真3

エジプトのファラオが
王冠に着けていた飾り

 

写真4

セルタ文明の文字に
よく似ている

 

huaro1-5.JPG (29173 バイト)

huaro1-3.JPG (28790 バイト)

huaro1-6.JPG (66582 バイト)

huaro1-8.JPG (27683 バイト)

 

写真5

マヤ文明の絵文字にも
これと良く似たものが
ある

 

写真6

真円に近い穴にはドリルで彫ったような溝が
見える

 

写真7

左右の写真の説明図

左側の見取り図が
写真8

右側が写真6

 

写真8

弧を描いた円筒形の穴は一体どんな機具で
彫られたのだろうか