第7日目
マヌー川はボカ・マヌーを境にして、下流がマドレ・デ・ディオス川に名前が変わる。この川の周辺は人間の商業活動が許されている文化地域になっている。しかし野生動物が見られないかというと、そうではない。
例えば、有名なコウゴウインコが集まってくる場所がある。今日はそこを訪ねることにした。ブランキリオから来るまで20分も乗るとその地に着く。
上陸してから10分ほどでインコの観測用に建てられた小屋に到着。すでに何人かの先客がいる。小屋は横長に建てられており、中に入ると正面に高さ70-80センチほどの
覗き窓が開けられており、そこから30メートルほど離れた向かいの土壁に来るインコを観測できるようになっている。
部屋のうしろ側には、お湯を沸かしたり軽食を作る料理台が備わっている。朝食抜きで出発した我々は観測を続けながらコックの用意してくれたパンとコーヒーを頂く。
空が明るくなるにつれしだいにインコが集まってきた。体全体が緑色した「Mealy
Parrot」(メアリーインコ)だ。その数2-3百羽はいるだろうか。群れをなして木々の間を移動する時の鳴き声が遠く離れた小屋でもうるさいほどだ。
鳥たちがなぜ向かいの土壁(コルパ)に集まってくるのかというと、コルパに含まれているミネラルをついばむためである。しかし、見ていると、土壁の上の木々に
群がったインコは、なかなか下に降りてこない。
ワシやノスリなどの猛禽類が近くにいないか確かめているからだという。2時間ほどしてとうとう土壁には近寄らずに飛び立っていった。土壁に集まるインコたちにも、どうやら時間帯が
割り振られているらしく、時間帯によってインコの種類が変わるようだ。
次にやってきたのが「Red and Green
macaw」(ベニ・コンゴウ・インコ)である。名前の通り赤と緑の羽をつけた、きらびやかなインコである。大きさも先ほどのメアリー・インコに比べると2倍ほど大きい。朝日を浴び
ながら雄雌が並んで飛ぶ姿は実にきれいである。
ベニ・コンゴウ・インコもなかなか土壁には降りてこない。なぜだろうかと小屋の周囲を見渡すと、小屋と土壁の間の草むらの中に、一匹のノスリがいた(写真13)。
どうやらこれを警戒しているようなのだ。
さらに1時間ほど待ったが、期待した土壁に群がるインコの姿は撮れそうもないので、あきらめて引き上げることにした。
帰路につく
マヌーの旅もいよいよ終わりが近づいた。電気や電話のない原始的な環境の中で過ごした7日間の旅は、恵まれた生活を送るうちに、いつの間にか忘れてしまった大切なものを思い
出させてくれたようだ。
自然のすばらしさに接する感動、自然と一体となることによって得られる心の安らぎ、こうした
精神的な豊かさをすっかり忘れて、物質的な豊かさのみを求めて血眼になっている近頃の世情を考えると、むなしさと寂しさが今更のように感じてならなかった。
実は、チェロで泊まった3日目の夜、「肉体離脱」という異常な体験を経験することになった。
こうした体験は私には縁遠いことと思っていただけに、衝撃は大きかった。
夜の静寂(しじま)をぬって聞こえてくる夜行性動物の鳴き声、開け放たれた窓から見える椰子の葉陰にきらめく星々、こうした原初的な世界が醸し出す特別な雰囲気が、
私の魂を特異な体験に導いたのだろうか。
この体験は、人間の「愛」についてのこれまでの私の考えを一掃するものであった。言うならば、今までの人生で感じていた「愛」が如何にうすべったいものであるかを実感することとなったのだ。
臨死体験者が語る「愛」とは、こういったものに違いない。言葉では表現しにくいが、本当の「愛」とは、「立体的」で、「暖かく」
、そして輝くような「カラフル」な感情だということを知らされた。
短い一時であったが、この愛を感じている間、私は生まれてこの方感じたことのない至福館と恍惚感に包まれていた。
この体験については、いずれ本に書くか、講演会でお話しすることにしよう。
陸に上がり帰路についた私たちが目にしたのは、広大な原始雨林が次々と焼かれていく自然破壊の姿であった。畑や牧草地を広げるためにジャングルに火が放たれ、
広大な面積が次々と焼き畑化していく。その面積は毎年10万平方キロメートルにも達している。
ジャングルの土壌は栄養的に乏しいため、耕作地というより牧草地として使われることが多い。しかし、その牧草地も過剰放牧によって、たちまちのうちに砂漠化する。すると彼らはさらにジャングルに奥深く入り、同じことを繰り返す。そのため、ブラジルやペルーを流れるアマゾン川とその源流周辺の熱帯雨林は急速に砂漠化するところとなる。
読者は、ブラジルのロンドニアに広がる砂漠の写真を見たことがあるだろうか? そこには、見渡す限り赤くひび割れた大地が広がり、舞い上がった赤い土埃が空を染め
る荒涼とした風景が写っている。まるで火星探索機が撮影したシドニア地方の景色そっくりである。
まったく同じことが地球を半周した東南アジアの国々でも行なわれている。その代表格がインドネシアの山岳民族である。
彼らもまた、過度の焼き畑によって自然を破壊し、多くの動植物を絶滅させて温暖化の元凶を作っている。
しかし、先進国に住む我々に彼らを責める資格はない。排気ガスや農薬で空気や土壌、河川や海を汚染し、利便性のために大量の二酸化炭素を排出し続けているのは他ならぬ我々であるからだ。
こうして、世界中の人間たちが競って自然を破壊してつづけているのだから、母なる「地球」も、たまったものではない。
「ガイア仮説」と呼ばれる考え方がある。この仮説は地球そのものが生き物(ガイア)で、この巨大な生態系複合体は、外部からもたらされる環境悪化などの負の影響を、自分の周りの環境を変化させることによって、最小化することが出来るという考え方である。
つまり、このガイア仮説によれば、地球には生物圏が緩和してくれる回復力が備わっているので、人間が引き起こす環境破壊など、さして心配することはないということになってくる。
確かに地球には、ガイア仮説が説くように自浄作用力があり、その力の作用によって自然災害や環境破壊がもたらす負の影響を、時間をかけて修復していることは間違いない。しかし、それには限りがあることを忘れてならない。巨大なガイア「地球号」もその限界を超えた時点からは、自滅へと向かうことになるのだ。
インドネシアの30万ヘクタールに及ぶ森林火災、50万人の死者を出したスマトラ島の大津波、村ごと墓場と化したパキスタンの大地震、ニューオリオンズを襲った巨大ハリケーン
、フィリッピンの地滑り・・・・・・これらはみな、自浄作用を失った地球が発し始めた「悲鳴」ではなかろうか。
暗闇に包まれたジャングル街道を、きな臭い煙の臭いをかぎながら走っていると、愚かな人間に向かって叫ぶガイア地球の「うめき」と「怒りの声」が聞こえてくるようであった。