天野博物館
1964年に建造された「天野博物館」には、ペルーに移住した、故、天野芳太郎氏が、事業の傍ら、長年にわたって集めた古代インカ、プレインカの遺物が展示されている。
首都リマのミラフロレスという美しい住宅街にある3階建てのこじんまりしたした建物の中には、チャンカイ文明(ペルー中部で紀元後1000−1400年頃栄えた文明)の遺品を中心にした粒よりの名品が、一工夫した並べ方で展示されている。
この博物館がユニークなのは、入場料を取らないことと、予約制であることである。指定された時間に行くと、天野さんのお孫さんに当たる阪野先生(日本の大学を出た考古学者)が、自ら案内してアンデス古代文明の歴史や展示物について、懇切丁寧な説明をして下さる。
今回は、たまたまツアーの中に天野先生の中学、高校時代の同級生の方がおられこともあって、壺などを、直接手で持たせていただく幸運に恵まれ、大変ラッキーであった。重そうに思われた壺があまりに軽く出来ているのには、驚かされた。これだけ軽くするには、器の厚さを相当薄くしているわけで、当時の技術水準の高さに、みな舌を巻いてしまった。
その他にも驚かされる展示品がいくつかあった。その内の一つが、モチーカ文明と呼ばれる紀元後、100年から600年頃の時代(ナスカ時代とほぼ重なる)に作られた、エジプト人やヨーロッパ人、中国人などの顔を模した土器である。(写真添付)
コロンブスの新大陸発見より千数百年も古い時代に、旧大陸の多種多様な容貌をもつ人々の顔が民族衣装と共に描かれているということは、アンデス文明において、当時あるいはそれ以前に、旧大陸
の国々との密度の濃い交流があったことを物語っている。しかし、紀元前後の、南アメリカとヨーロッパ
やアジア大陸との往来の話など、我々の教科書には一切載っていない。
「チャンカイ文明期」に織られた織布や編み物にも驚かされる。アルパカの「綴れ折り」や「羅(ら)のスカーフ」、「刺繍のレース」など、現代の技術をもってしても、なかなか織り難いほどの素晴らしいものがたくさん陳列されている。それらを王侯貴族だけでなく、一般庶民が使っていたというのだから驚きだ。
さらに驚かされるのは、250番手の極細の糸を引いて織った織物である。現代の日本では、140番手が限界だといわれていることを考えれば、当時の糸引きの技術の凄さには、ただ驚くばかりだ。いったい彼等は、どんな技術を持っていたというのだろうか?
細かい細工となると、その他にも彼等は信じられないことをやっている。目でやっと見えるぐらいの小さい金の半球を溶接した飾り物があるが、虫眼鏡で見ても溶接の跡が見あたらない。また、同じリマ市内にある「黄金博物館」には、直径が3ミリほどのトルコ石に、0.19ミリの穴を開けて作ったネックレスが展示されている。
超微細の技術は、織物や宝石加工に限ったものではない。チャンカイ地方でひかれた灌漑は、4000分の1の勾配(4キロの距離でわずか1mの高低差)で水を流していたというから凄い。因みに、先頃ペルー人が模倣して灌漑水路を造ったところ、失敗して水がうまく流れなかったそうである。
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こうやって見てくると、アンデス文明は、数百トンの巨石を何十キロ先まで軽々と運搬し、まるで積み木遊びをするように、寸分の隙間もないほどにそれらを接合させる驚異的な石組み技術がある一方、ミクロの世界の超微細の加工技術も併せ持っていたことがわかる。
どうやら、インカ、プレインカのアンデス文明の歴史は、多くの「謎」と「不思議さ」を秘めた、驚愕の歴史の存在を暗示しており、それは、人類文明の発展が、正統派学者が説くように、単純な上昇曲線を
描くものでなく、前進と後退の繰り返しによるスイッチバック型(Z型)の反復の歴史を示しているように思われる。
紀元前400年、プラトンが述べた言葉が思い出される。「知識とは、記憶に過ぎぬ。ゆえに教育とは、ただ我々が前の世で知り、体験したものを思い出させることに他ならない」
我々人類は、長足の進歩を遂げ、今日、過去の如何なる時代より進歩した技術力と高度の文明を築いているのだと思いこんでいる。しかし、実は、かって我々の先祖が築き完成した技術や文明を思い出し、ようやく今日のレベルまで立ち戻ったところなのかもしれないのである。
ペルー探索の8日間の旅は、人類の文明発生の謎を、更に深めるところとなったようである。