入れ墨から見た同祖論

今からおよそ1万2000年前に、一夜にして太平洋に沈んだと言われているのがムー文明である。その時、東の大陸・南北アメリカに渡った人々の末裔がインカ族、マヤ族、ホピ族である。一方、西を目指して逃げ延びた人々は、琉球諸島や日本本土、それに台湾や東南アジアへ渡り、その地の先住民となった。

埴原和郎氏が1991年に提唱した日本人の起源に関する「二重構造説」では、次のように述べている。

「日本人は現日本人と渡来人との混血によって生じたものである。前者は数万年前に日本列島に渡来した後期旧石器時代人から生まれた縄文人で、後者は弥生時代以降に大陸から新たに渡来した集団である。両者の接触によって、九州や本州では両者の混血が進んだが、北海道と沖縄では縄文人の系統が比較的純粋な形で残り、アイヌと沖縄の人々になった」

私は、埴原氏が東南アジア系の縄文人と述べている人々こそが、ムー大陸から移住して来た人々であったのではないかと考えている。元々日本列島にはすでに原住民が暮らしていたに違いないが、ムー文明の高度の知識をもった移住者たちが主導権を握って、 地球規模の大異変で原始時代に戻った文明を、再び開花させてきたものと思われる。

その末裔を代表するのが、卑弥呼が率いる邪馬台国であった。しかし、弥生時代に入って大陸から東北アジア系の人々が渡来し、彼らは次第に追い払われて南九州から琉球諸島へ、また一方は北の地へと 移り住んでいった。

南に下った種族の内の一つが熊襲(くまそ)と呼ばれる一族で、彼らはしばらくの期間、南九州の地で留まっていた らしく、古事記には古代九州の西南部にいた勇猛な豪族として登場している。一方、次第に北へと追いやられた種族は蝦夷(えみし)と呼ばれ るようになり、彼らは東北から北海道へと移住し、アイヌの祖先となった。

そうした時の流れを裏付けるように、マヤや沖縄、アイヌの人々はその顔形、彫り の深い目鼻立ちや体毛や髭の濃い点、頬骨の張り出し方が強い点、やや長頭型である点などがよく似ている。



(写真上)
口の周りに入れ墨し、弦楽器トンコリを持つ女性
 

 

 



(写真下)  手の指や甲に彫った入れ墨

 
 


女性の入墨

さらに、マヤ人や琉球諸島の人々、台湾の高砂族、東南アジアの少数民族、アイヌ人たちの源流が一つであることを示しているのが、女性たちに残された 「入れ墨」(いれずみ)の慣習である。

これらの民族の女性たちは、どの民族も結婚の前に入れ墨をする習慣があり、その場所も指先から手の甲にかけて同じ箇所に彫られ、文様もよく似ている。

アイヌの女性は 、他の民族と違って手の甲だけでなく、口の周りにも、かなり派手な入れ墨をしていたようだ。(写真左)

他の民族にはこの慣習は残されていないようであるが、それは、入れ墨の習慣のない民族との交流が始まって以後、不都合が生じ、しだいに行われなくなってしまった からではないだろうか。

アイヌでは、結婚する前12〜16歳ぐらいの頃に、入れ墨をするのが習わしとなっており、入れ墨をしないと周囲から一人前の女性と見なされず、結婚することも儀式へ参加することも許されなかったようである。

沖縄や琉球諸島でも、「針突き」 と呼ぶ同じ習わしがあった。(呼び方は島によって異なり、奄美大島ではハズキ、沖縄本島ではハジチなどと呼んでいた)。

1719年に沖縄を訪れた徐葆光(じょほこう)の『中山伝信禄』(言叢社刊)には、この地の女性は、15歳で針突き模様を完成すると記されているので、入れ墨をする年齢もアイヌとよく似ていたことが分かる。

また、入れ墨をする理由については 、琉球諸島では入れ墨を持たない女はあの世に行けないという永世の信仰があったようであるが、アイヌの人々も、全く同様な来世観を持ってい て、ほとんどすべての女性が入れ墨をしていたようである。

なお、琉球諸島の針突きは1899年(明治32年)に「入れ墨禁止令」が出されたあと、風俗改良運動が進展する中で、次第にその習性が消えていった。
 

 

   アイヌ民族博物館で撮影(原画は「蝦夷島奇観」)
   

    



入れ墨文様の相似性

下の図はムー大陸からの移住者と考えられる琉球諸島(沖縄本島、奄美大島、宮古島、八重山島)の人々と台湾の高砂族、アイヌ人の女性が指や手の甲、甲からひじにかけ彫った入れ墨の一覧である。個々の文様は異なっているが、全体像はよく似ているのに驚かされる。

宮古島の針突き(入れ墨)は、アイヌと同じように甲からひじにかけて長く彫られている。また、模様の派手さでは高砂族の文様がアイヌに似ているように感じられる。一方、アイヌ人の手の甲の中心に彫られた文様に酷似しているのが、奄美大島と八重山島の「サスカ」と呼ばれる文様である。

 

 

 

     
   奄美大島
 

沖縄・那覇

  アイヌ

         
      宮古島
   
   台湾高砂族

  八重山島

                                      『誰も言わなかった古代史の話』 (川崎真治著)より転写

                                    

琉球諸島の入れ墨文様(図A)

 

入れ墨文様 @

入れ墨文様 A

入れ墨文様 B

入れ墨文様 C

入れ墨文様 D

                                            『ムー大陸は琉球にあった』(徳間書店刊)
 


アイヌの服飾文様と琉球諸島の入れ墨文様の相似性

今回、アイヌ人に関する書物を読んでいて、はたと気づいたことがあった。それは、アイヌの衣服を調べていたとき、彼らが用いていた服飾文様の幾つかが、琉球諸島の女性たちの針突き文様に酷似していることであった。驚いて、色々な関係書籍を調べてみたが、この点については全く触れているものがなかった。

しかし、アイヌの服飾文様の大半が、琉球諸島(特に宮古島)の針突きの中に登場していることは、とても偶然の一致とは思えない。思うに、宮古島では個々の 図柄を小さな針突文様として数多く残した一方、アイヌの人々は高砂族同様、大柄の図を大胆に描いたために、個々の図案は女性の衣装に服飾文様として残したのではあるまいか。

専門家の学者の先生方はどうしてこういった点に目をつけないのか不思議である。読者は下記に示した両者の相似性を見てどのように感じられるだろうか。

アイヌの服飾文様(下図B)と琉球諸島の女性の針突き(上図A)の中で、その相似性が認められるものは下記の通りである。

服飾文様@は、入れ墨文様 ・・・・・・・・・   @ー1段目(宮古島)/Bー1段目(宮古島)
服飾文様Dは、入れ墨文様  ・・・・・・・・・  @ー6段目(宮古島)/Bー4段目(多良間島)
服飾文様Eは、入れ墨文様  ・・・・・・・・・  Aー2段目(宮古島)
服飾文様Fは、入れ墨文様  ・・・・・・・・・   Dー1段目(宮古島)/Cー2段目(宮古島)
服飾文様Gは、入れ墨文様  ・・・・・・・・・  @ー4段目(宮古島)


アイヌの服飾文様
 図B (「アイヌ民族誌」(第一法規出版刊)より転写)

     
             服飾文様 @             服飾文様 A        服飾文様 B     服飾文様 C
     
      服飾文様 D      服飾文様 E        服飾文様 F     服飾文様 G   服飾文様 H

 


入れ墨と服飾文様は宇宙を表現している

服飾文様や入れ墨(針突き)の文様の中には、宇宙の姿や星を表現したのではないかと思われるものが幾つか存在している。アイヌの服飾文様・図BのA〜Cは渦巻き銀河を表現しているように見える一方、下段の文様、特にGは光り輝く星の姿そのものである。

また、琉球諸島の針突きの中にも、夜空に輝く星々や渦巻き銀河を表現しているものが多い。喜界島の左手首の文様(下図・文様C−1)や奄美大島の名瀬市や竜郷町の針突き(下図・文様 C−2〜4)は、銀河宇宙やそこに輝く星々を表現しているように見える。

このように、宇宙や星々の姿を針突きの文様に使っているのは、彼らの遠い祖先の宇宙との関わりの歴史を伝えようとしているのではないかと思われる。私は琉球諸島やアイヌの人々の祖先はムー文明の生存者たちだったと考えているが、もしそうだとしたら、高度の文明を築き、宇宙の人々とも接触があったムーの子孫が、宇宙や星々に関する知識を、針突きの形で残そうとしたことは、十分に考えられることである。

どうやら、マヤ人やアポリジニーたちが祖先の記憶を伝承や壁画に残してきたように、アイヌや琉球の人々は入れ墨や針突きの形で、それを記憶に留めようとしてきたようである。

琉球諸島の針突きを研究している人々が、一様に不思議に感じる点は、なぜ、彫られている文様が、これほどまでに多種多様にわたっているのかということである。しかしこの謎も、ムー文明時代の宇宙との関わりを様々な形で伝えようとしたからだと考えれば、解けてくる。(人類と宇宙人との関わりについては、拙著『5次元入門』 (徳間書店刊)に記載)

宇宙からやって来た人々の故郷が遠い銀河であることを伝えようとした結果が、文様Cー1になり、銀河系には人の住むたくさんの星々が存在していることを知らそうとしたのが、文様C−3ではなかろうか。

マヤにはムー文明滅亡後に、離散した人々の再興を支援するためにプレアデス星団からやって来た宇宙人との交流の歴史が残されている。先般来日した、マヤの最高神官・ドン・アレハンドロはプレアデス星人たちがユカタン半島やエジプト、インド、カンボジアなどの幾つかの地に降りたって、 人類の文明再興に手を貸してくれたことを話してくれた。

文様C−2の左手の文様は、そうした人類と宇宙人との交流の歴史を伝えようとしているのではないだろうか。 もしかすると、5大陸に散った人類の源流が銀河系宇宙・プレアデスにあることを伝えているのかもしれない。

 

 

文様C−1

 


(文様C−2) 奄美大島・名瀬市の針突き
 

 
    

               
(文様C−3) 奄美大島・名瀬市の針突き
 

 

 
    
 

                
 (文様C−4) 奄美大島・竜郷町の針突き
 

                                                                      沖縄の宗教と民族(第1書房刊)参照

 

 

 

九州から琉球諸島にかけて残るアイヌ語の地名

アイヌ人と琉球諸島の人々の同祖論の根拠は入れ墨だけではない。北海道の各地にアイヌ語の地名が数多く残されていることは、「アイヌ人の尊厳回復へ」に記したが、九州や琉球諸島にも、アイヌ表示の地名が残されている。

『九州の先住民はアイヌ』の著者・根中治氏は、アイヌ語は関西から四国、九州にかけて広範に残されているが、中でも九州が最も多く、その中でも北九州の福岡・佐賀・熊本にかけてが特に多いと述べている。

福岡県

福岡では、筑後川の上流およびその周辺地区、那珂川、多々良側上流、遠賀川上流地区にアイヌ語地名が存在しており、いずれも先土器遺跡、海図かを含む縄文遺跡のあるところ、もしくはその周辺に散在しているようである。具体的に例を挙げると、

@ 米冠(シリカンベまたはシリカンゲ) アイヌ語で「海際の山」、または「水面に浮かぶ丘」の意である。語源と
      なる 「シリ」は元々、土地、地の意味であるが、高地、山、崖(水際の)、島といった意味がある。カンベとは
      水面とか水際という意味である。北海道には「尻別川(シリベツガワ)、「シリナイ」、「尻場(シリパ)」などの
      地名が残されて いる。

A 下代久事(ケタイクジ)  アイヌ語の意味は、「川向こうの山の頂に密集した森のあるところ」。現在でも那珂
      川上流の右岸の山手には、鬱蒼とした原始林があり、その一部は杉林になっている。アイヌ人の住まいは、
      那珂川の左岸にあったものと思われる。

B 釣垂(ツタル)  「川岸の切り立った2つの尾根」という意味。 「ツ」は二つという意味と、尾根または峰という
     意味がある。タル(タオル)は川岸の高所の意味。現在、釣垂(ツタル)には市の水道用水の南畑ダムがある
     が、そこには、二つの切り立った岸壁があって、その間を渓流が流れている。

C 背振山(セブリヤマ)  「高く、広い山」の意。 福岡県と佐賀県の県境を延々と連なる標高1055Mの
      背振山の名前の由来については飛竜が背を振ったとか、弁財天の竜間が背を振ったとか色々の説があり、
      中には、周辺に「白木」のつく地名が多いことから、朝鮮の「新羅」を類想し「ソウル」が転訛したものだという
      説まである。しかし、アイヌ語のセブリ(高い、広い)が一番納得感がある。

佐賀県

佐賀県でアイヌ語の地名が最も多いのは、有明海に面した嘉瀬川(かせがわ)、六角川、塩田川の流域、火口地帯である。個々の地名は抜きにして、ここでは最も興味深い地名「ヅーベット山」を取り上げてみる。

@ 「ヅーベット山」  県内の東背振村の田手川上流にある標高730メートルの山がヅーベット山である。この
     山の名前は地理院の5万分の1の地図にカタカナで表示されているが、カタカナ記載の山というのは珍しい。
     おそらく、先住民の言葉として伝えられてきた名前が、漢字表示が出来ずにそのままカタカナで表示されてきた
     ものと思われる。

   アイヌ語で「ヅー」は、「峰」という意味と「たくさん」という意味がある。ベットに該当するアイヌ語が見当たらな
     いが、このあたりの谷間は小さい川がたくさん集まっているので、恐らく「たくさんの川の集まったところ(峰)」
     という意味ではないかと思われる。

熊本県

熊本でアイヌ語が関係する名称といえば、真っ先に思い出すのが「チプサン (tibusan)古墳」である。私のHPのトップページを飾っている写真である。古墳の壁画のキャプションにも書いたように、考古学者は古墳名「チプサン」を女性の乳房(チブサ tibusa)からつけられた名前だと述べている。

しかし、それは壁画の一部に丸い円が二つ描かれていることからそう主張しているだけで(下図参照)、それでは、二つの円がなぜ乳房を表しているといえるのか? また、「チブサ」がなぜ「チブサン」となっているのか? それらの理由をまったく説明できていない。これでは見る人を納得させることは出来ない。
 

 

 
 

 


左側の二つの円の中に黒い点があるので、これを乳房と乳首と判断したのだろうが、人間の姿を描いたものかどうか定かでないのに、乳房と判断するの飛躍 のし過ぎではないだろうか。神聖な古墳の中に裸の女性像が描かれるというのも解せないことである。
 

 
 

古墳のメインの壁画は、トップページに掲載した絵柄を見れば分かるように、そこには7機のUFO(空飛ぶ円盤)を迎えている冠をかぶった王の姿が描かれており、それは女性の乳房とは全く関係がない絵柄だ。ところが、古墳名がアイヌ語の名称であるとすれば、 古墳名の納得のいく説明が出来るのだ。

先日、北海道の白老(しらおい)にあるアイヌ民族博物館を訪ねた際に、アイヌ人の方に「チプサン」というのはどういう意味でしょうかと、尋ねたところ、それは「船を降ろす儀式」を意味する「チプサンケ(chipusanke)」のことではありませんか、きっと長い歴史の間に「チプサンケ」の「ケ」が抜けてしまったのだと思いますよと言われた。

「チプ」はアイヌ語で「船」を意味し、「サンケ」は降ろすとか降臨させるという意味である。冬の間陸に揚げておいた丸木船を、春になって漁をするため海や湖に降ろすのだが、その時に執り行う儀式が「チプサンケ」、つまり、「船を降ろす儀式」というわけである。そう考えると、壁画の絵は、まさに「チプサン(ケ)」(宇宙船を地上に降ろす(着陸)させる際の儀式)そのものではないか。

読者の心眼は、学者先生の説く「乳房説」と私の言う「船降ろし儀式説」と、どちらを選ばれるだろうか?
 

琉球諸島

朝倉書店発行の『 日本地名大辞典 』の「屋久島」の項を見ると、「島には野生の鹿と猿が多数(約2万匹)生息すると書かれている。が屋久(ヤク)はアイヌ語の鹿という意味である。また沖縄本島も日本書紀や隋書などの古い文献には「屋久」、「流求」、「夜久」(やく)と表記されている。

また、小野妹子が随に留学していた時代には、沖縄は夷邪久国(イヤクコク)と呼ばれていたようであるが、この「イヤク」もまた、アイヌ語で熊や鹿、ムジナなどを含めた「獲物」という意味である。

因みに、「琉球」という呼称は、沖縄が隋と交通していた時代に、中国側で「流求」(やく)という漢字を「リュウキュウ(琉求)」と読んだことから、そう呼ばれるようになり、後に1372年に明の太祖が「琉球」と改めてからは、それが外交上の正式名称となったものである。

種子島には南部の宇宙センター近くに「茎永」(クキナガ) 、海泊(アマドマリ)があるが、前者は、「断崖がある所」、後者は「稲田のある港」の意である。海泊以外にも、島には、「唐泊」など「港」や「入り江」を意味する「トマリ」のつく地名が大堰が、北海道にも泊原発のある泊(とまり)市がある。

奄美大島にも、冠岳(カムイダケ)「久慈」などの名称が残されている。「カムイ」は「神」を表すアイヌ語の代表的な言葉で、「久慈」は「クジ」や「串」、「狗子」、「久師」と呼ばれる地名と一緒で、アイヌ語の「超える」という意味の「クシ」から来ているようである。

ここで取り上げた九州や琉球諸島の地名を表す言葉は、大和言葉では全く意味不明のものばかりである。例えば
下代久事(ケタイクジ) と言う単語を見たとき、漢字表記であろうが、カタカナ表記であろうが全く意味不明の言葉である。

しかし、アイヌ語で訳すと、「川向こうの山の頂に密集した森のあるところ」となって意味が通じるばかりか、その場所の状況が、鬱蒼とした原始林が 生い茂り、その一部は杉林になってい て、その土地の情景を見事に表している。また、たくさんの鹿が生息していた屋久島の語彙を鹿のいる島、つまりヤク島とすれば島の特徴をそのまま表現している。

こうしてみてみると、読者にも、取り上げた地名が無理矢理アイヌ語を当てはめたものでないことと同時に、アイヌ人が遠い過去に日本全土に住んでいた事実を理解することが出来るに違いない。その彼らが中南米のマヤ人やインカ人、オーストラリアのアポリジニー、台湾の高砂族などと体型や顔形だけでなく、入れ墨などの生活習慣で類似した点を持っていることを考えると、彼らの先祖が同じ一族で、滅びたムー文明から東西に散った人々であることが分かってくる。

私はアイヌ語の専門家ではないので、これ以上のことは分からないが、日本という国の生い立ちや民族の由来を調べるのに、アイヌ語という言語学の面から考えてみるのは大変有意義なことのように思われる。

ただ、それを学者が調べようとすると、邪馬台国の九州説、関西説が先に出てきてしまう。そうすると、東大派と京大派のどちらに加担するかどうかで悩ましい問題が生じてしまい、一つ一つの事例を、偏見で判断することになってしまう。現にアイヌの研究に関しては、外国の研究者の方が進んでいるように思われるのも、そういった弊害があるからではないだろうか。

そうなると、学閥や考古学とは門外漢の人間が、時間と資財を投入して、こつこつ調べるしか手がなくなってくる。このHPで取り上げた、『 九州の先住民はアイヌ 』 の著者・根中治氏などはその代表的な人物といえよう。町村合併などで土地の名前が消えない内に、本気で調べる人が出てきて欲しいものである。