九州から琉球諸島にかけて残るアイヌ語の地名
アイヌ人と琉球諸島の人々の同祖論の根拠は入れ墨だけではない。北海道の各地にアイヌ語の地名が数多く残されていることは、「アイヌ人の尊厳回復へ」に記したが、九州や琉球諸島にも、アイヌ表示の地名が残されている。
『九州の先住民はアイヌ』の著者・根中治氏は、アイヌ語は関西から四国、九州にかけて広範に残されているが、中でも九州が最も多く、その中でも北九州の福岡・佐賀・熊本にかけてが特に多いと述べている。
福岡県
福岡では、筑後川の上流およびその周辺地区、那珂川、多々良側上流、遠賀川上流地区にアイヌ語地名が存在しており、いずれも先土器遺跡、海図かを含む縄文遺跡のあるところ、もしくはその周辺に散在しているようである。具体的に例を挙げると、
@ 米冠(シリカンベまたはシリカンゲ) アイヌ語で「海際の山」、または「水面に浮かぶ丘」の意である。語源と
なる 「シリ」は元々、土地、地の意味であるが、高地、山、崖(水際の)、島といった意味がある。カンベとは
水面とか水際という意味である。北海道には「尻別川(シリベツガワ)、「シリナイ」、「尻場(シリパ)」などの
地名が残されて いる。
A 下代久事(ケタイクジ) アイヌ語の意味は、「川向こうの山の頂に密集した森のあるところ」。現在でも那珂
川上流の右岸の山手には、鬱蒼とした原始林があり、その一部は杉林になっている。アイヌ人の住まいは、
那珂川の左岸にあったものと思われる。
B 釣垂(ツタル) 「川岸の切り立った2つの尾根」という意味。 「ツ」は二つという意味と、尾根または峰という
意味がある。タル(タオル)は川岸の高所の意味。現在、釣垂(ツタル)には市の水道用水の南畑ダムがある
が、そこには、二つの切り立った岸壁があって、その間を渓流が流れている。
C 背振山(セブリヤマ) 「高く、広い山」の意。 福岡県と佐賀県の県境を延々と連なる標高1055Mの
背振山の名前の由来については飛竜が背を振ったとか、弁財天の竜間が背を振ったとか色々の説があり、
中には、周辺に「白木」のつく地名が多いことから、朝鮮の「新羅」を類想し「ソウル」が転訛したものだという
説まである。しかし、アイヌ語のセブリ(高い、広い)が一番納得感がある。
佐賀県
佐賀県でアイヌ語の地名が最も多いのは、有明海に面した嘉瀬川(かせがわ)、六角川、塩田川の流域、火口地帯である。個々の地名は抜きにして、ここでは最も興味深い地名「ヅーベット山」を取り上げてみる。
@ 「ヅーベット山」 県内の東背振村の田手川上流にある標高730メートルの山がヅーベット山である。この
山の名前は地理院の5万分の1の地図にカタカナで表示されているが、カタカナ記載の山というのは珍しい。
おそらく、先住民の言葉として伝えられてきた名前が、漢字表示が出来ずにそのままカタカナで表示されてきた
ものと思われる。
アイヌ語で「ヅー」は、「峰」という意味と「たくさん」という意味がある。ベットに該当するアイヌ語が見当たらな
いが、このあたりの谷間は小さい川がたくさん集まっているので、恐らく「たくさんの川の集まったところ(峰)」
という意味ではないかと思われる。
熊本県
熊本でアイヌ語が関係する名称といえば、真っ先に思い出すのが「チプサン
(tibusan)古墳」である。私のHPのトップページを飾っている写真である。古墳の壁画のキャプションにも書いたように、考古学者は古墳名「チプサン」を女性の乳房(チブサ tibusa)からつけられた名前だと述べている。
しかし、それは壁画の一部に丸い円が二つ描かれていることからそう主張しているだけで(下図参照)、それでは、二つの円がなぜ乳房を表しているといえるのか?
また、「チブサ」がなぜ「チブサン」となっているのか? それらの理由をまったく説明できていない。これでは見る人を納得させることは出来ない。
古墳のメインの壁画は、トップページに掲載した絵柄を見れば分かるように、そこには7機のUFO(空飛ぶ円盤)を迎えている冠をかぶった王の姿が描かれており、それは女性の乳房とは全く関係がない絵柄だ。ところが、古墳名がアイヌ語の名称であるとすれば、
古墳名の納得のいく説明が出来るのだ。
先日、北海道の白老(しらおい)にあるアイヌ民族博物館を訪ねた際に、アイヌ人の方に「チプサン」というのはどういう意味でしょうかと、尋ねたところ、それは「船を降ろす儀式」を意味する「チプサンケ(chipusanke)」のことではありませんか、きっと長い歴史の間に「チプサンケ」の「ケ」が抜けてしまったのだと思いますよと言われた。
「チプ」はアイヌ語で「船」を意味し、「サンケ」は降ろすとか降臨させるという意味である。冬の間陸に揚げておいた丸木船を、春になって漁をするため海や湖に降ろすのだが、その時に執り行う儀式が「チプサンケ」、つまり、「船を降ろす儀式」というわけである。そう考えると、壁画の絵は、まさに「チプサン(ケ)」(宇宙船を地上に降ろす(着陸)させる際の儀式)そのものではないか。
読者の心眼は、学者先生の説く「乳房説」と私の言う「船降ろし儀式説」と、どちらを選ばれるだろうか?
琉球諸島
朝倉書店発行の『 日本地名大辞典
』の「屋久島」の項を見ると、「島には野生の鹿と猿が多数(約2万匹)生息すると書かれている。が屋久(ヤク)はアイヌ語の鹿という意味である。また沖縄本島も日本書紀や隋書などの古い文献には「屋久」、「流求」、「夜久」(やく)と表記されている。
また、小野妹子が随に留学していた時代には、沖縄は夷邪久国(イヤクコク)と呼ばれていたようであるが、この「イヤク」もまた、アイヌ語で熊や鹿、ムジナなどを含めた「獲物」という意味である。
因みに、「琉球」という呼称は、沖縄が隋と交通していた時代に、中国側で「流求」(やく)という漢字を「リュウキュウ(琉求)」と読んだことから、そう呼ばれるようになり、後に1372年に明の太祖が「琉球」と改めてからは、それが外交上の正式名称となったものである。
種子島には南部の宇宙センター近くに「茎永」(クキナガ) 、海泊(アマドマリ)があるが、前者は、「断崖がある所」、後者は「稲田のある港」の意である。海泊以外にも、島には、「唐泊」など「港」や「入り江」を意味する「トマリ」のつく地名が大堰が、北海道にも泊原発のある泊(とまり)市がある。
奄美大島にも、冠岳(カムイダケ)や「久慈」などの名称が残されている。「カムイ」は「神」を表すアイヌ語の代表的な言葉で、「久慈」は「クジ」や「串」、「狗子」、「久師」と呼ばれる地名と一緒で、アイヌ語の「超える」という意味の「クシ」から来ているようである。
ここで取り上げた九州や琉球諸島の地名を表す言葉は、大和言葉では全く意味不明のものばかりである。例えば
下代久事(ケタイクジ) と言う単語を見たとき、漢字表記であろうが、カタカナ表記であろうが全く意味不明の言葉である。
しかし、アイヌ語で訳すと、「川向こうの山の頂に密集した森のあるところ」となって意味が通じるばかりか、その場所の状況が、鬱蒼とした原始林が
生い茂り、その一部は杉林になってい
て、その土地の情景を見事に表している。また、たくさんの鹿が生息していた屋久島の語彙を鹿のいる島、つまりヤク島とすれば島の特徴をそのまま表現している。
こうしてみてみると、読者にも、取り上げた地名が無理矢理アイヌ語を当てはめたものでないことと同時に、アイヌ人が遠い過去に日本全土に住んでいた事実を理解することが出来るに違いない。その彼らが中南米のマヤ人やインカ人、オーストラリアのアポリジニー、台湾の高砂族などと体型や顔形だけでなく、入れ墨などの生活習慣で類似した点を持っていることを考えると、彼らの先祖が同じ一族で、滅びたムー文明から東西に散った人々であることが分かってくる。
私はアイヌ語の専門家ではないので、これ以上のことは分からないが、日本という国の生い立ちや民族の由来を調べるのに、アイヌ語という言語学の面から考えてみるのは大変有意義なことのように思われる。
ただ、それを学者が調べようとすると、邪馬台国の九州説、関西説が先に出てきてしまう。そうすると、東大派と京大派のどちらに加担するかどうかで悩ましい問題が生じてしまい、一つ一つの事例を、偏見で判断することになってしまう。現にアイヌの研究に関しては、外国の研究者の方が進んでいるように思われるのも、そういった弊害があるからではないだろうか。
そうなると、学閥や考古学とは門外漢の人間が、時間と資財を投入して、こつこつ調べるしか手がなくなってくる。このHPで取り上げた、『
九州の先住民はアイヌ 』
の著者・根中治氏などはその代表的な人物といえよう。町村合併などで土地の名前が消えない内に、本気で調べる人が出てきて欲しいものである。