2日間で3回の上船を終えた後、知床半島の中央部を縦断する知床峠を越えて、羅臼から半島の反対側に位置するウトロに向かう。この知床峠は11月上旬から4月下旬までは閉鎖しているので、前回のワシの撮影では渡ることが出来なかった。
峠越えの道中の見所は羅臼岳と知床五湖の展望である。五湖は3700年前の硫黄山の噴火の際に起きた土砂崩れで出来た凹凸のくぼ地に水がたまって出来たもの。五つの湖はどれも水深が2〜3mと浅いが、地下からの湧き水で満たされているため青く透き通っており、知床連山が映り込んだその姿は知床を代表する景観となっている。
ウトロの海岸に出た後は今夜の宿泊地帯広を目指して進む。途中、オシンコシンの滝(上の写真)に立ち寄る。「オシンコシン」とはアイヌ語で「流れが2本になっている」という意味で、別名「双美の滝」と呼ばれている日本の滝100
選に選定された壮大で美しい滝である。 帯広に着いたのは7時過ぎ、昼の38・5度の記録に残る猛暑の夜の生ビールが喉に染み渡った。
富良野・美瑛に向かう
早朝5時起床で富良野に向かう。富良野と美瑛の丘とそこに咲く花の景観は北海道で最も人気のあるスポットとなっており、多くの観光客で賑わう北海道最大の観光スポットである。今回はそんな美瑛と富良野の開拓の歴史を振り返ってみることにする。
北陸や東北から渡ってきた人々によって、北海道に残された最後の開拓地・美瑛の開拓が始まったのは今から130〜140年ほど前、富良野はそれより少し遅れて120年ほど前。美瑛と富良野は今は日本有数の美しい丘として知られているが、開拓民たちがこの地にたどり着いた時は一面鬱蒼と茂る山林地であった。
手で木を伐り、馬を使ってその根っこを掘り起こしての作業は困難を極めたようである。そうした苦汁を乗り越えることが出来たのは、開拓者たちがみな三男坊、四男坊達だったからであった。「故郷に戻ったところで土地を得ることなど出来ない。ここを死に場所にするしかないのだ」その思いが開拓者魂となって困難を乗り越えさせたというわけである。
そうした開拓史の中で最も悲惨だったのは富良野開拓に入って30年後、田畑が広がり収穫が順調になり始めた頃・大正15年に起きた十勝岳の噴火であった。噴火によって崩れ落ちた岩と溶かされた雪解け水が、山肌の木々を飲み込み泥流となって麓に襲い掛かり、家屋や田畑を飲み込んだのだ。
復興にはおよそ8年を要したようである。田畑に厚く積もった木々を取り除き、そこに丘を削りとった土を運んで埋めたという話をお聞きすると、復興に向かった開拓者たちの根性に頭が下がる思いである。現在はそうした祖先をもつ3代目の人々が農業に従事する一方、観光地としての美しい景観を見せてくれているのだ。
そうした歴史を持つ美瑛や富良野の丘に、美しい花が咲き誇るのは6月の後半から7月にかけて。是非また機会を作って再訪したいものである。