つの大きな囲炉裏(いろり)があり、それを取り囲んで
ヤン衆たちは輪になって食事を執ったり寝泊まりをしていたようである。
その空間の周囲三方を2段作りの高台「上の段」「中の段」がヒナ壇状に取り囲み、食事をとる大広間(「下の段」)と併せて全ての空間が就寝の場となっていた。なにしろ最盛期には200人近いヤン衆が寝泊まりしていたというから、
こうした構造が必要だったのであろう。それにしても、この大空間はさぞかしにぎやかで、男の熱気がむんむんする部屋だったに違いない。
ヤン衆たちは本土からやって来て4月から6月頃までのたった3ヶ月間で1年分の年収を稼いでいた。それだけに早朝から夜遅くまで休む間もなく働き、夜
も投網の期間中は船上で寝泊まりする日々を送っていた。したがって船に乗り込む準備や後片付けの期間、また海がしけた時以外は、番屋で寝泊まりすることはなかったようである。
一方、船主は大漁に次ぐ大漁で財を為して、ニシン御殿や別邸を造り、「ニシン大尽」と呼ばれる程の大名暮らしをしていた
人物もいたようである。その代表的な一つが、小樽で国の登録有形文化財として残されている青山船主家のニシン御殿や別邸である。それにしてもそうした船主の子孫は今どのような暮らしをしておられるのだろうか?
家運隆盛3代まで言われているだけに、人ごとながら気になるところである。