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「オアハカ」から「メキシコシティー」へモンテ・アルバン遺跡を見学した一行は、ミトラ遺跡とヤグール遺跡を訪ねその夜オアハカ発19:40の飛行機でメキシコシティーへと向かった。11日間に及ぶメキシコ古代文明探索の長旅も終わりに近づいていた。 約1時間のフライトはその日の探索の疲れですっかり寝込んでしまった。メキシコシティー空港に近づいたことを知らせるスチュワーデスの声で目を覚ました私は、機窓から見える夜景に思わず思わず歓声をあげてしまった。そこには目映いばかりのイルミネーションに彩られたメキシコシティーの夜景が映し出されていた。 2000万人が住むメキシコシティーを眼下に見下ろす飛行コースのために、その夜景は世界中のどの国でも味わえないほどに素晴らしいもので、あまりの素晴らしさに旅の疲れも吹き飛んでしまった。この国でも最近騒音公害が問題になってきており、数年のうちには飛行場の移転計画が実施されるようなので、100万ドル、いや1億ペソの夜景も今しばらくしたら見納めになってしまうに違いない。 神々の都市「テオティワカン」(B.C200-A.C700)およそ12世紀頃、メキシコ北部に住むメシカ人(後のアステカ人)と呼ばれる戦闘的な狩猟民族は彼らの守護神ウイツィロポチトリから霊示された「サボテンの上に蛇をくわえた鷲がいる場所」を求めてメキシコ半島を南下した。中央高原にやってきた彼らは、すでに完全な廃墟と化した巨大な都市遺跡を発見した。 遺跡に散在する建造物の古さは想像を超えており、人間が造ったというよりは自然の一部のように見えるほどであった。しかし現存していた二つの巨大なピラミッドや城塞を見て、メシカ人たちはそこがかねてから噂に聞いていた神々の住む偉大な都市であったことを悟った。 その後、そこから50キロメートルほどのところに彼らの都市テノチティトラン(後のメキシコシティー)を築いたメシカ人(アステカ人)は廃墟となった偉大な遺跡を神々の住む神聖な場所として「テオティワカン」と呼び、後々まで崇拝の対象とした。スペイン人に征服された当時のアステカ皇帝モンテスマも、しばしばその地へ足を運び巡礼していたことが報告されている。 因みに、「アステカ人」と呼ばれる民族は、メシカ人とテノチティトラン周辺に住んでいたナワトル語族をまとめた総称で、19世紀になってスペイン人によってつけられた呼び名である。「メキシコ共和国」や「メキシコシティー」の語源もメシカ人から来ている。 この壮大にして巨大な都市の建造の時期については、考古学者による定説によると、紀元後150年から300年とされ、その後600年頃にかけて繁栄したとされているが、紀元前1500年から前1000年に最盛期を迎えたと主張する学者や地質学的見地から近くの火山ヒトレが噴火した紀元前4000年よりも前に建てられたと主張する学者もいる。 いずれにしろ、当時のテオティワカンは20万人を越す人口を擁していた推定されており、当時のヨーロッパと比較してみると、コンスタンチノープル以外には人口2万人以上に達する都市が見られないことから、テオティワカンの都市がいかに壮大なものであったかが分かろうというものである。 テオティワカンはマヤをはじめとする同時代の都市遺跡とは異なる幾つかの特徴を持っていることも、謎の一つとされている。メソアメリカにおける都市センターは、何世紀にもわたってその造営と増改築が繰り返され、長い年月をかけて次第に都市として整備されていくのが普通である。中にはモンテ・アルバンのように千年を越す長期間にわたって完成されているものもある。 ところが、テオティワカンでは、当初に設計された計画に従って、まず中央をほぼ南北に貫く大通りが建設され、その左右にあたかも碁盤の目状に、神殿などのピラミッドの建造物が次々と建設されて、わずか百数十年の期間に20万平方キロメートルにも及ぶ壮大な都市が完成している。 一方、この都市には王や貴族、神官の他に農民、商人,工人などの一般の人々がともに住んでいたことが明らかになっており、他の都市とのきわだった違いを見せている。また、宗教都市センターとしては、珍しいことに、メソアメリカの他の遺跡には必ずと言っていいほどある球技場が発見されていないことも未解明の謎の一つとされている。 テオティワカンには文字らしき絵文字模様も幾つか発見されているが、その数も少なく解明にはほど遠い状況である。このため、テオティワカン人がいかなる種族の人々であったのか、また繁栄を極めた都市がなぜ8世紀頃に突然放棄され、彼らがどこへ消えてしまたえたのかなど、テオティワカン遺跡には未解明の謎が数多く残されている。 |
| テオティワカン
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遺跡のゲートは幾つかあるが、ほとんどの観光客が遺跡内にその第一歩を踏み入れることになるのは、メキシコ・シティーへのハイウエーのちょうど入り口にある「城塞」前のゲートからである。
ゲートをまっすぐ進むとアステカ人が「死者の大通り」と名付けた40メートルもの幅を持つ通りに出る。これを横切ると急な階段があり降りるとそこは広大な広場になっており、周囲が高い壁で囲まれている。 この巨大な空間をスペイン人は城塞と名付けたが、実際に城塞であった証拠はなにもない。ただ一辺が45メートル、高さが7メートルの巨大で厚い壁に囲まれている様は確かに城塞と見間違う。 |
城塞の中を西に進むと、2つの基壇の先にケツァルコアトルのピラミッドが見えてくる。この神殿はメソアメリカの中でも最も保存状態の良い考古学的記念碑でカラフルな塗料の跡が未だに残っている。というのは、1960年代までその多くが小山の中に埋もれており、発掘されてからまだ日が浅いためである。
神殿は高さが22メートルほどで、タルー・タブレロ様式と呼ばれるテオティワカン独特の建築様式で建てられており、写真のように斜面の途中が垂直になってそこに彫像がはめ込められている。また中央階段の脇にも立体的に飛び出した彫像が見える。(写真@、A)
最も目立つ彫像は、ケツァルコアトルのシンボルである蛇の頭部で、開いた口からは大きな牙が出ている。(写真B) その横にはテオティワカンのもう一つの主神である雨の神「トラロック」が飾られている。(写真C) |
初めに城塞」を見た後は、一般的には「死者の大通り」を通って「太陽のピラミッド」に向かうようであるが、我々は一旦ゲートを出た後、月のピラミッドに近い北の端のゲートまでバスで移動した。その間2キロメートルもあるので時間稼ぎをしようとしたわけである。 北ゲートから月のピラミッドへ向かう途中に「ケツァルパパトルの宮殿」と「ジャガーの宮殿」と呼ばれる宮殿跡の横を通る。(写真@)は、「ケツァルパパトルの宮殿」の裏庭で司祭たちの住まいであったようだ。遠方に見えるのは月のピラミッド。 「ジャガーの宮殿」は発掘が新しいためか、内部に未だ鮮やかな壁画や彫像が残っており、ネコ科動物の壁画が数多く見られる。羽毛の頭飾りをかぶった天空のピューマが星のシンボルの前で、羽根飾りがあるホラ貝を吹いている。ホラ貝は冬至を象徴している。(写真C) またケツァル(鳥)の姿も色鮮やかに残っていた。(写真B)
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「月のピラミッド」(写真@)や「太陽のピラミッド」(写真B)の呼称は、アステカ人が自分たちの神話に登場する物語の中からつけたもので、実際にテオティワカン人たちが何と呼んでいたのかは、「城塞」や「死者の大通り」の名前と同様、まったく分かっていない。 一辺が約150メートルで高さが約45メートルある「月のピラミッド」に登ってみた。一気に登ると、けっこう息が切れる。エジプトのピラミッドと違って一直線で頂上部まで延びているのではなくて、4層からなる基壇の積み重ねで出来ている。 「太陽のピラミッド」と同様に斜面の中央部にある階段には手すりがついており、降りるときには手すりにつかまらないと恐怖感を感じる。頂上に立って南の方向を眺めると、巨大なテオティワカンの遺跡の全体像が一望でき、都市計画の見事さが実感できる。(写真A) この壮大な神殿都市はあまりに整然としすぎていて、古代の都市遺跡とは思えない雰囲気がある。「死者の大通り」はまっすぐ南に向かって伸び、その南端は遙かに遠く道行く人はまるで米粒のように見える。 大通りから少し東に寄ったところに「太陽のピラミッド」が見える。(写真B)その大きさが巨大なためすぐ近くにあるように見えるが、実際には1キロメートル弱離れている。高さは「月のピラミッド」の方が低いが、太陽のピラミッドに比べて13メートルほど高台にあるので頂上の高さはほぼ同じ高さになっている。不思議なことに、この点はギザの大ピラミッドとカフラー王のピラミッドの関係にそっくりだ。
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写真A
「月のピラミッド」を降りて、「太陽のピラミッド」を見学するために「死者の大通り」を南に向かった。幅40メートルの雄大にして見事な[死者の大通り」の呼び名は、アステカ人が最初にこの遺跡を発見したとき、両サイドに小山が幾つか並んでおり、それを墓と勘違いしたためにつけたものである。
しかし彼らが墓と推測したものは実際には、基壇や神殿の跡であったので、その呼称はまったく当を得ていないことになる。 この点で、興味深いのがアルフレッド・E・シュレンマーの研究結果である。彼はアメリカ人の地震の予測の専門家であるが、学会で報告した論文によると、「死者の大通り」は道路ではなく、水が一杯に溜められたプールが何段か連なった水路だったというのだ。 シュレンマーの説を確かめようと、特別に現地の案内人を頼んで死者の大通りを南に向かって探索してみた。上空から眺めたときにはまったく気づかなかったが、歩いてみると確かに数百メートルごとに大通りは高い壁でさえぎられて2−3メートルの段差がついており、その壁の西側には水門がついていた。 城塞と月のピラミッドがあるところでは30メートルほどの高低差があるので、北の端の月のピラミッドから流れ出た水は南に向かって流れて2キロ下降の城塞にまで達していたということは十分にあり得ることである。 その間、各段ごとに水は溜められ、一定水位を超した水は西側にある水門を通って更にその下のプールにそそぎ込む方式になっていたものと思われる。大通りを往復しながら両サイドの壁や水門を見てみると、そこが水位がおよそ1メートルほどの広大なプールであった可能性は強いように思われた。 また途中大通りに面した西側にプールの水をひいて水面の高さを調節するためとも考えられる大型の貯水槽のような施設もあった。(写真D) それではこのプールは何に使われていたのだろうか? シュレーマーはその用途について、この光を反射するように造られたプールは、「長期にわたって使用される地震観測の計器で、今となっては理解不能な古代の科学装置」だっと述べている。 さらに彼は、テオティワカン人は、世界中で起こった地震の強さと場所を読みとり、次にどこで起こるかを予測できるように設計していたと指摘している。シュレーマーの説を「神々の指紋」の中で紹介しているグラハム・ハンコックは、同著の中でこの説に対する考えを次のように述べている。 「もちろんシュレンマーの理論が正しいと証明するものはなにもない。だが、メキシコの神話には地震や洪水の話が多く、マヤのカレンダーでわかるように、太古の人々が未来の出来事を予測することに熱中する傾向があったことを考えると、アメリカ人技術者の強引な結論を無視する気にはなれなかった」 ハンコックの考えに私もまったく同感であった。 |
写真D
ツアーの一行は月のピラミッドの後、太陽のピラミッドを見て帰りのバスに乗り込むことになっている。私はシュレンマーのプール説の検証のため単独行動で1キロほど先まで死者の大通りを往復したため、太陽のピラミッドに戻ったときはほとんどの人達がピラミッドをすでに降りてバスに向かっていた。
集合時間に遅れまいとして早足で探索してきたので、汗だくで心臓も高鳴っている。これから60メートルを越す太陽のピラミッドへ登るのは相当しんどそうだ。しかし「太陽のピラミッド」に登ることはメキシコ探索最後の締めくくりであると同時に、ペルー、エジプトとつづいた先史文明探索の一連の旅行の締めくくりでもあり、登らない手はなかった。 メキシコ探索に備えて足腰を鍛えておいた甲斐あって、一気に頂上まで登ることが出来た。自分でもよく頑張れたと感心している。もう数年後だったらおそらくこれだけのハードスケジュールはこなせなかったに違いない。思い立つのが早くて本当に良かった、というのがいつわざる感想である。 写真Aはまだ頂上部に残っていてくれた武岡さんと古賀さんに撮っていただいた貴重なスナップである。両手のVサインは一連の探索旅行完結の喜びのVであった。 「太陽ピラミッド」の謎我々はすでにエジプト探索で、ギザの大ピラミッドが地球の大きさと形状を投影した建造物であることを見てきた。高さ(土台を含む)147.09メートルと土台の基底部の4辺の長さ925.56メートルは地球の極半径と極周りの円周の43200分の1の尺図で、そこには3.1416という円周率π(パイ)が使われていた。 つまり、147.09m×2×3.14≒925.56m(半径×2π=円周)の公式が使われており、それによって3次元球形の地球を4つの平面を使って表現し得ているわけである。(現代建築で使用されているように、実務上、円周率は22/7を使っていたようである) しかし、ここで使われる円周率πを3.14と計算したのはアルキメデスが人類ではじめてであるとされており、。それは古代エジプトで三大ピラミッドが建てられた時よりは2000年以上も後のことである。 不思議なことに、ギザの3大ピラミッドに匹敵する巨大で精緻な「太陽のピラミッド」においても、古代エジプト同様、円周率πが使われていた。 「太陽のピラミッド」の高さは基壇上の神殿の高さを加えると、71.17メートル、土台の周辺の長さは893.91メートルである。周辺の長さにおいてはエジプトの大ピラミッドとほぼ一緒であるが、高さがおよそ半分になっている。 そこで、高さに2πでなく4πを掛けると見事に4辺の長さの総和が現れる。つまり、71.17メートル×4×3.14=893.90メートルとなって公式がはじき出す数値にほとんど誤差がない。大西洋を挟んだ2つの国のピラミッドがπの公式を利用していたことは、とても偶然とは思えず、両文明が高度の数学的知識を保持していたことを強く示唆するものである。 |