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トゥルム遺跡(A・C200-A・C950)とカリブ海 メキシコ撥8:00の飛行機でユカタン半島の国際的リゾート地「カンクン」へ向かう。 機に乗り込むときにスチュワーデスを通じて機長に、ポポカテペトル山を是非見たいので、山の近くを飛んでくれないかと頼んでおいた。というのは、、メキシコシティーの南東80キロメートルほどの所にあるポポカテペトル山、通称ポポ山が噴火するとき、人類は社会的にも経済的にも大きな変革期を迎えるという言い伝えがマヤ民族に残されていたからである。 しかし、長い間、ポポ山は死火山であるから噴火などあり得ないとされてきていた。ところが2年半ほど前、そのポポ山が突然噴火活動を始めたのである。ポポ山の噴火は日本の新聞でも取り上げられたので、その記事を読んだとき、私は非常にショックを受けた記憶が生々しく残っていたので、噴煙を上げるポポ山を一度目にしておきたかった。 現地のガイドさんによると、噴煙の影響がある上、いつ再爆発するか分からないので、今は飛行機は相当離れたコースを飛ぶようになっているという。そのため飛行機からはよく見えないはずですよと言われていた。そこでだめで元々と思って、スチュワーデスに先の以来をしてみたわけである。 とても聞き入れてもらえないものと思って、期待していなかったので、席も通路側で座っていたところ、機が水平飛行に移って5分程したとき、スチュワーデスがやってきて、ポポ山が見えるはずだから、窓側に座りなさいと言って、二人の外人を有無を言わさず立たせて、窓側に席をとってくれた。 驚いている間もなく、機窓から噴煙を上げるポポ山が目に入ってきた、お陰で今もなお噴煙を上げ、現地の人々が再噴火を恐れているポポ山をじっくり眺めることが出来た。後でガイドのホセ・市川さんが驚いていたから、確かに普段よりはポポ山寄りに進路を変えて、サービスしてくれたに違いない。メキシコの機長も粋なことをするものだ。 スペイン人によるメソアメリカ征服カンクンの飛行場からトゥルム遺跡までおよそ1時間、メキシコオリンピックで整備された標高ゼロメートル地帯の高速道路をひた走る。周りは4メートルほどの灌木が生い茂る。しばらく走ると左手に白い砂浜と真っ青なカリブ海が見えてきた。遠くにコスメル島(ユカタン半島の東海岸沿いに位置する)が望める。この島こそ、スペイン人が最初に偉大なマヤ文明を目のあたりにした地であった。 アメリカ大陸に渡ったスペイン人エルナンデス・デ・コルドバの探検隊が、1517年に既に不足していた奴隷と黄金を求めてメキシコ沿岸を探検していた。彼らが最初にたどり着いたのがユカタン半島東北海上のコスメル島であった。スペイン人たちはそこであっと驚くような文明に遭遇する。それは、キュウーバやハイチで見てきたカリブ属の質素な小屋とは対照的な、堅牢な建造物をもつ文明であった。 実はそれより15年前の1502年、後に「アメリカ」と呼ばれることになる西インド諸島の発見者、コロンブスとマヤ人との最初の接触が、コスメル島よりはるか南、ホンジュラス湾の沖合で行われていた。 マヤ歴「カトゥン4アハウ2年」、西暦1502年、巨大な木の幹を彫り抜いた丸木船に乗った総勢25名のマヤ人の一行は、ホンジュラスの沖合を航海していた。彼らは、沿岸や島々と交易するために、ユカタンからやってきた人々であった。突然、一人の男が驚きの声を発した。グァナハ島の手前に見慣れない大きな暗礁が突然三つも出現していたからであった。 別の一人が、すぐにもっと大きな声をあげた。その暗礁が動き出したからであった。漕ぎ手たちは呆然として櫂を放り出し、不安そうに眺めている。それでも船長はすすめの合図を送り、丸木船はしだいに海に浮かぶ小山のようなものに近づいていった。下から見上げると、どうやらそれは巨大な船のようであった。遙かに船の上では人影らしいものが動き回っている。 しばらくすると、巨船の上から縄ばしごおろされた。勇敢にも、丸木船の何人かが船長を先頭に登っていった。船上に登り立つと、体を布で覆った、毛むくじゃらで、まるで猿のような生き物がまったく意味の分からぬ言葉を使って、話しかけてきた。その生き物とマヤ人はお互いの顔を見つめ合い、においをかぎ、つまんでみてはお互いに驚きあった。 その後、贈り物を交換しあったあと、丸木船がどこからやってきたのか手振りで尋ねると、彼らは「マヤム」からと答えた。ユカタン半島のマヤ人と、グァナハの手前に停泊中のクリストファー・コロンブスのカラベラ船との最初の出会いは、このようなものであった。 コロンブスとマヤ人との最初の出会いから15年後に、エルナン・コルテスが最初にコスメル島に上陸し、実際にマヤ文明を目の当たりにすることになるのであるが、その間に、二人のスペイン人の数奇な運命の物語がある。この物語は、詳細レポート「ゲレロとアギラールの物語」で読んでいただくことにして、コルテスのコルメス島上陸からわずか2年後の1521年には、メソアメリカにおける先住民族最後の王国アステカはスペインの軍門に下ることになるのである。偉大にして、長い歴史を誇るメソアメリカ文明の最後にしては、あまりにもあっけない終焉であった。 トゥルム遺跡探索と観光昼食の後、トゥルム遺跡に向かう。トゥルムがマヤ人によって建設されたのは700年から1000年頃で、その最盛期は1200年から1400年(後古典期)ごろであったとされている。カリブ海に面した最高の景観を誇る遺跡で、今は遺跡を見に来る人より近くの海岸で海水浴を楽しむ人の方が多いような感じである。 遺跡の帰りに「シェルハー」(水の生まれるところ)と呼ばれる、自然との共存を目指すマリンパークに立ち寄る。イルカと観光客とが一体となって遊ぶ姿が印象的であった。 リゾート気分もここまで。いよいよ明日から本格的な遺跡巡りが始まる。明日は、チチェンイッツァの遺跡にとっては特別な日。ククルカンのピラミッドの階段を、まるで蛇がおりてくるように見える奇妙な現象が起きる特別な日である。天候に左右されるため数年に一度しか見られないというこの珍しい現象を運良く目にすることが出きるかどうか、すべては天気次第である。ただただ好天を祈るのみである。 |
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| ポポカテペトル山
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再び「ポポ山」が大噴火をするとき、我々の社会は更なる変革を遂げることになるのであろうか。 |
1970年、カリブ海の島々に対抗するリゾート地として建設された「カンクン」は、当時、真っ白な長いビーチとココナツのプランテーションだけの小さな漁港に過ぎなかったそうである。 |
「トゥルム」とは城壁という意味。古くは「サマ」(日の出)と呼ばれてマヤの町で、遺跡の背後東側はカリブ海になっている。 かってサマの人々は、水平線上に昇る太陽に感謝し、夕方、西に沈む太陽に向かって、神殿の中から明日もまたいつもと変わらず昇ってくれと祈りを捧げていたという。そのため建物は西向きになっている。 このような祈りの儀式を、マヤ人が未開の民族なるが故の行動だと思ったら大間違いである。なぜならマヤの神官や宇宙の観測者たちは、太陽や月や星々(特に金星)の動き(軌道計算)については、現代の我々以上に精通していたからである。 その一例をあげるなら、地球が太陽を一周する時間、つまり、1年の正確な日数については、16世紀後半までヨーロッパで利用されていた「ユリウス歴」より、マヤ歴に使われていた日数の方が、はるかに正確であった。 マヤ人のもっていた科学知識は、天文学に限らず、数億年をさかのぼれるロングカウント(長期計算表)を採用した長期暦やゼロ(0)の概念と桁の概念をもった数字についての知識など驚異的なものであった。 マヤの数学、暦、天文学についての詳細レポート |
イグアナはメソアメリカの中部や南部の先住民には古くから食されていたそうであるが、何故か、北部のユカタン地方ではそのよ うな習慣はなかったようで、そのためか北部の遺跡には巨大な(30−40センチ)イグアナにやたらと出くわす。 肉は淡泊で鶏肉の味に似ているという。以前、日本の女子大生ツアーの一行に、旅行社からの特別料理だと言って、料理の正体を明かさずに出したら、皆おいしいといって食べたそうである。 ただしこの話には後日談があって、旅の最後の日に特別料理の肉は、実は今見ているイグアナの肉であったといったら、大半の女子に強烈なアレルギー発疹が出て大騒ぎなったそうである。旅行者も罪なことをしたものだ。 |
南国特有の原色系の色が空や海の青さに映えて、非常に美しい。 |
遺跡の下に広がるビーチでのんびり。 こんなきれいな海と空、それと・・・・を見たらすぐにでも飛んで行きたくなりませんか。 下の写真は、顔をお見せできずに男性諸氏には申し訳ないが、なかなかの美人であった。見事なプロポーションもさることながら、読んでいる本が素晴らしい。 こんなことを書くと、また娘に叱られそうだ。 |
カリブ海の岩の多い入り江を観光客に楽しみやすいように整備した国立公園で、シュノーケルをして海中を散歩したり、イルカと遊んだりすることが出来る、自然と共存した素晴らしい公園である。 水中にマヤの遺跡もあり、公園内にも所々に小さい遺跡が残されている。
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