「モンテ・アルバン」遺跡は、オアハカの町から車でわずか20分ほどの距離にある。遺跡名はサボテカ語で「聖なる山」と
言う意味であるが、文字通り、盆地中央の400メートル四方の「聖なる山」の頂上部を人工的に平らにし、その上に築かれたサボテカ族の一大祭祀(宗教)センターである。
南北360メートル、東西240メートルの長方形の大広場を囲む形で造られた神殿ピラミッドや球技場、宮殿などの建造物は
、そのいずれもが現在は基壇部分を残すのみであるが、それでもその規模と壮大さには文字通り圧倒される。
モンテ・アルバン遺跡の特徴は、広大な敷地に千数百年という長期間にわたって断続的に建てられた個々の建造物が、それぞれの特徴を生かしながら全体的な調和を保持していることだと言われている。
その典型的な例が砲弾型(矢じり型)をした「マウンドJ」と呼ばれる建物(上の写真)である。モンテ・アルバンの遺跡全体は南北に対して数度傾いているが、この建造物はその傾きに対してさらに45度傾いており、その方向は他の建造物に比べて著しいズレがある。
「マウンドJ」が
天体観測に使われた「天文台」であったのではないかと言われているのはそれゆえである。
遺跡から発掘された石版
上の写真はモンテ・アルバンの形成初期に刻まれたと思われる有名な遺物が、南西の角近くにある「踊る宮殿」の前に置かれている。それは「踊る人々」と呼ばれる人物を浮き彫りにした巨石石版である。
これらの石版は「踊る宮殿」の壁面に300枚ほど飾られている。オリジナルは遺跡の入り口近くにある博物館やメキシコ人類学博物館に保管されており、遺跡に置かれているものはレプリカである。
「踊る宮殿」や「踊る人々」のいわれは。壁面に飾られた石版の人物が踊るような格好をしているところから来ている。「踊る人々」は、一見踊っているように見えるが、それらはほとんど裸で、目を閉じ、口を開けて、性器を切り落とされていることから、拷問にかけられ殺された捕虜たちの姿を描いたものと言われている。
しかし、これらの人々のほとんどが先に「ラ・ベンタ遺跡」で見た黒人やあご髭のある白人と同一の人種に見える。考古学者マイケル・コウもその著書『メキシコインディオとアステカ文明を探る』のなかで、この「踊る人々」の姿にオルメカ文明の特徴を見い出し、サポテカ人の文明をオルメカから発生したものに違いないと述べている。
問題は、オルメカでは指導的立場にあったはずの白人や黒人が、何故か
一転して捕虜の立場に置かれて辱めを受けている点である。オルメカの遺跡で発見された石版や人頭像に描かれた彼らは偉大な人間として彫られ、神聖な場所に崇拝の対象として飾られていた。
ところがそれから数百年から数千年に経た後に彫られたと思われるこの石像の人物達は、彼らとはまったく別人、別種族の人々のように哀れな姿に変わり果てている。一体これはどうしたことなのであろうか?
この点についても、学者は「黙して語らず」である。学者という人種はまことに勝手な生き物であるとつくづく思う。もっとも、学者諸兄は、コロンブス以前に白人や黒人がメソアメリカの地に存在したこと自体を認めていないのだから、そこから先を説明のしようがないのは無理からぬことである。
追記
連載の「マヤ・オルメカ探索の旅」をご覧になられて、先史文明にさらに興味が湧いてこられた方は、徳乃蔵ギャラリーで開催中の写真展「マヤ遺跡探索の旅」に是非ご来館頂きたい。沖縄や帯広・札幌、神戸、淡路島など遠方から来館された方が異口同音に、「遠くから来た甲斐がありました」と喜んでおられるのは、他では見ることの出来にない遺跡や遺品を拡大写真でご覧になって、先史文明の存在を改めて実感できたからのようである。
社会や自然界が一段と混迷を深めてきている昨今、残された人生をより有意義に生き抜くためには、正しい「死生観」や「価値観」と同時に、正しい「歴史観」をもって頂くことが何より重要である。そのためには、先ずは間違った歴史観から脱却することが必要不可欠である。
私が十数年にわたって探索してきたグアテマラ、メキシコ、コスタリカなどマヤ・オルメカ遺跡の実際の姿をご自身の目で確かめられ、学校で教えられた歴史の間違いを肌で実感して頂くことは,必ずやお役に立つはずだ。読者におかれては、少々のお金や時間や労力を惜しんでいては、そのチャンスは遠のいていくばかりであることを、この際しっかりと肝に銘じておいて頂きたい。後の後悔先に立たずである。
なお、「初冬の冬景色」に掲載した、聖なるエネルギーが放射されて光の輪がくっきりと浮かんだ「満月の写真」は、今ならまだプレゼントできるので、ご来館の際にはお申し出頂きたい。