アグアスカリエンテスのホテルから車でおよそ30分、日光の「いろは坂」が幼稚園児の遠足道に思えるような12周りを登り切ると、マチュピチュ遺跡の入り口に着く。
ここから徒歩で6,7分狭い山道を登ると、突然視界が開け目の前に遺跡が飛び込んでくる。いつ見ても感動的な風景だ。
今回は、これまでの探索と違って、木内氏が臨死体験中に見た避難都市としてとして建造されたマチュピチュが、地球的規模の未曾有の大洪水によって致命的な打撃をうけた事実を、検証するのが第一目的である。
木内氏は、遺跡内を歩きながら所々で足を止める。臨死体験中の記憶と照合しているのだろうか。前回の探訪で気付いたことであるが、遺跡内には、新旧二つの時代の石組みがある。
200トンを越えるほどの巨石と,バターナイフで切ったような多面体の石が、見事に組み合わされた精緻な石積みが残されている一方、小型の石を粗雑に積んだ石組みとが混在している。
さらに精査すると、石組みは三種類に分類できるようだ。つまり、先史文明の人々が当時保持していた高い技術力で建造した石積み(巨石を大量に使った石積み)と、遠い後の時代のレベルダウンした人々(インカ人)による石積み。それに、遺跡崩壊直後、わずかに生き残った生存者達が、残された技術で再建した石積みの三種類である。
木内氏が最も注目したのが、遺跡の中で最上段にある遺構で、そこには「太陽をつなぎ留める柱」という意味で、インティファタナと呼ばれる祭儀用の石造物がある。石造物の上部から、高さ1.8M、長辺が36センチの角柱が突き出ている。
インカの人々が、太陽が軌道を外れないよう神に祈る儀式で、礼拝石として利用してと言われているものだ。インカの人々の脳裏には、遠い祖先が体験した大惨事の際の潜在的記憶が、「天体の軌道変化=大災害発生」となって、残っていたのだろう。
彼らは、再び太陽が軌道をはずれ、大惨事が起きないように、毎年、冬至の日(南半球では、太陽が最も北に傾く日)には、石柱の真上に来た太陽をつなぎ留めようと、石柱に紐をかける儀式を行っていたのだ。
しかし、遺跡がインカによって造られたものでないとしたら、インティファタナの本来の目的はまったく違ってくる。それでは、そもそもの目的は何であったのだろうか?
学者の多くは、日時計説を主張している。上部の角柱が規準柱で、これが造る影が時刻を表示していたのではないかと考えている。しかし、木内氏の記憶に残る日時計は、そのように単純で稚拙(ちせつ)なものではなかったようだ。
太古の遺跡から、太陽や星の運行が信じられないほど精緻に観測されていたことを物語る遺構が、数多く発見されている。マヤ文明はその顕著な例である。そのようなことを考えると、当時の日時計が、地面に石柱を建てて、太陽が造る影でおおざっぱな時刻を知る程度のものでなかったことは、確かである。
木内氏の考えでは、日時計を支える基盤は、小規模な地震などではびくともしないほどしっかりと固定されたものであったはずだという。そのような見地からインティファタナを見てみると、土台は岩盤を削って造られており、日時計の基盤に十分耐えられるものであることが分かる。
どうやら、インティファタナの上部にある角柱は、日時計本体を支える支柱の一本であった可能性が強いようだ。他の基盤と支柱は、災害時に破壊され、本体と共にすぐ横のウルバンバ渓谷へ落ちてしまったのではないだろうか。 現に、残された角柱もよく見ると、その先端が折れていることが分かる。
インティファタナだけでなく、巨大な岩盤の上に築かれた高台そのものも、巨大災害で、その方位がずれてしまっているようだ。そのため、残念ながら、インティファタナ(日時計)のおかれた向きから、遺跡の正確な建造年代を探り出す試みは叶えられなかった。
夜に入って、我々は遺跡南端の高台で、澄み切った夜空を眺めながら星の観察をする。木内氏が携帯した天体望遠鏡で月や火星を見せてくれたが、マチュピチュの遺跡から眺める星々はまた特別である。
夜空に拡がる様々な星を指して、木内氏は苦もなく次々と名前を教えてくれる。北半球、南半球の四季毎の星座の位置がすっかり頭に入っているのだろう。さすがに彗星探索の世界の第一人者だけのことはある。
夜のマチュピチュに入った日本人は、わずかに違いない。何故なら、一般の人間の夜間の入場は硬く禁じられているからである。