オリャンタイタンボ遺跡

 

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オリャンタイタンボに到着

夕方4時過ぎに、オリャンタイタンボに着いた我々は、すぐに遺跡へと向かった。

遺跡は当初考えていたのと違って、ウルバンバ川沿いの険しい稜線の途中(ウルバンバ川から300Mほど高台)に築かれており、マチュピチュと同様に、「何故こんな所に?」というのが第一印象であった。

木内氏が臨死体験で見た先史文明崩壊の状況

ここで、木内氏が臨死体験中に眺めた、先史文明崩壊の要因と、その惨状について簡単に触れておこう。

プロローグで紹介したように(フロントページ下段)、木内氏は25年ほど前、航空自衛隊に勤務していた当時、上腸間膜動脈性十二指腸閉塞という奇病によって、東京医大病院で完全な死の状態に立ち至った。つまり、脈拍、脳波、心電図が停止し、医学的に死亡が確認されたのである。

ところが、死の状態がおよそ30数分間に渡ってつづいた後、奇跡的に蘇生をするのであるが、その間、時空と空間を瞬時に旅し、過去と未来の世界を垣間見るという希有な臨死体験をすることになるのである。

その際の詳細については、現在執筆中の著書『先史文明崩壊の謎(仮題)』で詳述する予定であるが、木内氏が語ってくれた先史文明崩壊時の状況を概略すると、およそ次の通りである。

エジプトやメソポタミアの四大文明より遙かに昔、地球上には現代科学を上回る文明が存在していた。今からおよそ1万5000年ほど前、そのような先史文明を襲ったのは、巨大彗星(現代の月)であった。

太陽系の彼方から地球に近づいた彗星・月は、地球の引力圏に入ると、その潮汐力によって表面を覆っていた海水(氷結して可能性が強い)や地殻内部の水が、気化し、地球に吸い寄せられた。

その結果、地球の赤道上に巨大な雲状の環が出来、それは一気に滝のような豪雨となって地上に降り注いだ。この時の豪雨は、雨と言うより水の塊が落下してくるようなもので、言うなれば、ナイヤガラ瀑布の数倍の水が、数千メートルの上空から落ちてくるようなものであった。

彗星はその結果、地球の引力圏にとどまり、現在の月となったわけであるが、表面の水や氷は全て消え失せ、内部の水(地球のマントルに当たるもの)もその時に表面に噴出して地球に降り注いでしまった。

そのため現在の月は内部が空洞になっており(アポロの地震探査で証明されている)、このような経緯を信じない学者にとっては、天文学的な大きな謎となっている。

地球上では、海面がおよそ2000メート上昇し、低地に存在していた当時の文明は海底下に沈んでしまった。

また大災害を予知し、山岳地帯へ逃れた人々も数多くあったようだが、予想以上の海面の上昇と、豪雨、さらに厖大な水量による重みで起きた地殻移動(地殻そのものがマントルの上を滑る現象)、大規模な津波、地殻の隆起と陥没・・・・・・・・これらの空前絶後の大カタスロフィーによって、ほとんどの人類が命を失い、文明は完全に崩壊してしまった。

先史文明崩壊の要因とその状況はおおよそ以上の通りであるが、その中で、迫り来る大カタスロフィーを逃れんと、高所のアンデス山系にたどり着き、避難用の都市を築いた人々がいた。(当時重力コントロールの技術を持っていたため、巨石による都市建造が為された)

その時の様子の一部を、木内氏は臨死体験中に目撃しているが、彼らが造ろうとしていた都市の遺構こそが、マチュピチュからクスコ一帯にかけての遺跡であったのである。

今回の旅行は、そのような木内氏の驚異的な臨死体験を、実際に現地に赴き、検証するのが大きな目的であった。そのために、無謀とも思える「アンデス縦断3000キロの旅」を強行することになったわけである。

したがって、このホームページは、そのような観点から遺跡の状況やアンデス山系の姿を眺めていくことになるため、他のレポートとは少し切り口が異なることになるなるはずである。

読者はこれらの点を念頭にご覧頂きたい。

 

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  遺跡の登り口

遺跡は階段上の登り口の両サイドに分かれている。

一つの稜線が巨大な津波によってえぐられたように見える。

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  6枚の屏風岩 @

有名な6枚岩が連なる屏風岩。上の写真の左側先端部にある。

手前の岩の上部に凸部があるところを見ると、岩はさらに連なっていたことが分かる。恐らく崩された階段の部分までのびていたに違いない。

さらに巨石同士の接続部分には、気の遠くなるような歳月を経た今日でも、まったく隙間が見えない。この驚異的な石積みの技術には、旅の最中、舌を巻きつづけることになる。

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   屏風岩 A

筆者の背丈から想像できるように、高さはおよそ4Mほどあり奥行きも1Mある。一枚一枚がとにかく巨大であることが実感されるであろう。

ここで用いられている巨石が、ウルバンバ川を挟んだ向かいの山の中腹から運ばれてきていることは、切り出し途中で放置された岩が石切場や川の中に残されていることから間違いない。

従って、これが先史文明の遺構であることは確かだ。

何故なら、100トンを越すこれだけの岩を300Mの高台へ持ち上げる技術はインカ人にはなかったからだ。現代の最先端技術を用いても、足場の悪いこの状況で、ここまで引き上げることは、ほぼ不可能に近い。

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  散乱する巨石 @

大異変で倒壊し、巨大な力で押し流されたと思われる巨石が方々に散乱している。

 

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  散乱する巨石 A

散乱する巨石にも凸部があり、他の石(凹部)と組み合わされて巨大な遺構を築いていたいたことが分かる。

凹凸の組み合わせによって建造された遺構は、我が国における釘を使わなかった昔の神社仏閣や仏像、それに城の建築方式を彷彿させる。

 

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  上り階段左側の壁面 @

側壁となっている石の切り口や積み方を見ると、新旧の技術が混在しているの分かる。(新:インカ時代、旧:先史文明)

壁面上部に連なる窓のように見える部分を記憶しておいて欲しい。次のマチュピチュの遺跡にこれとそっくりの石積みを見ることが出来るからだ。

さらにクスコやティアワナコの遺跡を訪ねると、アンデス一帯の遺跡が同一の文化や科学技術を持った人々によって建造されたものであることが分かるはずである。

これから登場する各遺跡でご覧頂く、石の切り口や石積みの様子に注目して頂きたい。

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  壁面 A

上と同じ石壁と屏風岩を下方より眺めたもの。

石壁右上部に積まれた小さめな石で積まれたものが、インカ時代の遺構である。技術水準の明確な違いが分かる。

 

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  ウルバンバ川に面した遺構壁面

遺跡に向かって左側の陵。この部分も巨大な津波によって削りとられた様子がうかがえる。

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  奇妙な頂を持つ山

ウルバンバ川を挟んで遺跡とは反対側にそそり立つ山頂が、奇妙に割れ、周りが刃物に削られたように研ぎ澄まされている。

巨大な水魂の落下による研磨の跡であろうか?

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   穏やかな山村の風景

今のオリャンタイタンボはのどかな山村である。

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   牛を曳く農夫

我が国ではすっかり見かけなくなった農耕用のたくましい牛を曳く農夫の姿が、郷愁を感じさせる。

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   インディオの親子

何処の国へ行っても子供は可愛い。母親の手を取る子供は、孫の勇人と同じぐらいの年代のようだ。

この国の子供も、昔と違って大人びた口をきいているのだろうか?

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   遺跡入り口のカフェ

オリャンタイタンボはマチュピチュに通じるインカ道の途中にあり、トレッキングする人の休息所となっている。

今回の旅行で見かけたのは、ほとんど欧米の人達で、クスコ以外では、日本人に出会うことが少なかった。

 

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              次回は、いよいよマチュピチュに入ります。

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