しかし街の様子は思っていたのとは大分違う。先ず驚いたのは、高速道路沿いに私有のマンションが建ち並んでいることだ。10年前のソ連邦時代には考えられないことだ。その光景を見ただけで貧富の差が拡大したことが分かる。
宿泊先のホテルに着くとまた驚かされる。ヨーロッパのホテルと何ら変わりがない。夜の食事もまずまずだし、バズやシャワー、それにエアコンも効きぐ具合もまったく問題ない。
かってのモスクでこれといったホテルは、ウクライナホテル、モスクワホテルなどほんの幾つかのホテルに限られていたことを考えると、街に散在する高級ホテルはみなソ連崩壊後、欧米の資本の導入によって建てられたものに違いない。現にこのホテルは、アメリカの大富豪アーマンドハマーの資金援助によって建てられたものだという。
北緯57度のモスクワは、日の暮れるのが遅い。この時期の日没は8時半頃だそうだ。就寝前、外を眺めると、モスクワ川沿いに照明に照らされた「ウクライナ・ホテル」が見える。まるでイギリスのセント・ポール教会のようで、教えられなければとてもホテルとは思えないような、古風で豪華な建物だ。
8月20日(火)
モスクワ市内観光
モスクワ市内観光。赤の広場に向かう途中「ロシア政庁」の前を通る。ゴルバチョフが政権の座から降りるきっかけとなったあの軍部のクーデターの砲撃の場面が思い出される。砲撃で破壊された建物も今はすっかり改修され、モスクワの「ホワイトハウス」になっている。あの時、戦車の前に立ちはだかり、市民から歓呼の声で迎えられたエリチンも既に引退して久しい。歳月の流れの速さを実感させられる。まさに「光陰矢の如し」である。
バスを降りて高台に上ると、有名な「赤の広場」に出る。向かって右側に国営のグム百貨店、左側の赤い城壁の中には、レーニン廊やクレムリン宮殿が建っている。城壁中央の時計台の下には、政府関係者専用の出入り口が見える。政治的トラブルが発生するたびに、黒塗りのリムジンが要人を運び込む場面が映り出されたあの建物だ。
「赤の広場」といえば、冷戦時代のはでやかな軍事パレードが印象的だが、アメリカと五分に渡り合ったソ連邦も今は解体し、今のロシア共和国にはアメリカに対峙するだけの軍事力はない。
赤の広場(クラスナヤ・プローシャジ)の「赤」を表すスラブ語の「kpachbiu」(クラスニー)には「赤い色」と「美しい」の二つの意味がある。本来、「赤の広場」は「美しい広場」という意味であったらしが、いつの間にか「赤の広場」と呼ばれるようになってしまったのだという。どうやら赤軍の「赤」と城壁の「赤」色がそうさせたようだ。
広場の近くに「ロシア正教」本山(救世主キリスト聖堂)の壮大な教会が建っている。19世紀はじめのナポレオンの侵攻を撃退させたのを記念し、ニコライ1世が建立したのがそもそもの始まりだという。
44年の歳月をかけて建造したこの建物も、社会主義国に変身した後の1930年代、スターリンの命で爆破され、跡形もなくなってしまった。その跡地に300メートルを超す巨大な高層建造物を建てる計画を立てていたようだが、独ソ戦(第二次世界大戦)の勃発で頓挫してしまったらしい。
その後、プールや公園に使われていたが、1995年、ロシア正教徒の強い要望で再建計画が立てられ、建造期間5年、総工費約7億ドル(800億円)で再建されたのがこの建物である。ほぼ90パーセントが復元されたという内部には、素晴らしい壁画が随所に描かれている。また建物もほぼ往時の姿に復元され、高さが80メートルを超す大聖堂となっている。
壁画の中でも、中央のドーム状の天上部分に描かれた「三位一体」の描写は圧巻である。そこには両手を広げた神と、その膝に置かれた御子イエス、それに天空を舞う聖霊の姿が見事に
描かれている。ドームの直径は30メートルほどあり、神の両手の間隔は15メートルに達するという。
「ムルマンスク」へ
市内観光を終えた後、モスクワ郊外のブヌコボ空港からチャーター機でムルマンスクへ向かう。ムルマンスクはスカンジナビア半島の東端フィンランドに隣接した、北の果ての町である。北緯70度に近く、北極圏内(北緯66度3分以北)に位置している。
因みに北極圏とは、1年の内、太陽の沈まない「白夜」が1日以上あり、また、太陽のまったく出ない「極夜」が1日以上あるエリアを指す呼称である。
ムルマンスク近郊の小高い丘陵には樹木が生い茂り、間もなく紅葉を迎えようとしているが、同じ緯度にありながら北シベリア一帯には藻類(そうるい)しか生えていない。それは、暖流のメキシコ湾流がスカンジナビア半島東端のムルマンスク沿岸まで流れ込んでいるためである
そのため、半島周辺の海岸線は真冬でも結氷することがないが、北緯42度のオホーツク海は氷の海となる。
独ソ戦(第二次世界大戦)中、前線基地としてアメリカから軍事物資が運び込まれる最重要港であったこの町は、大戦終結後も、極東のウラジオストックと同様重要な軍港として栄え、冷戦中は、ロシア人でも特別の許可がなければ出入り出来ない機密都市であったという。
今でも軍港として使われていためか、港内の写真撮影は禁止されている。そのため、桟橋のドッグに小型の空母が入っていたが、撮影することが出来なかった。(この頁に掲載した写真は出航した甲板から望遠で撮影したものである)
毎年この地を訪れる人に話を聞くと、この空母は既に2年ほど前からドッグ入りしているが、補修の方は遅々として進んでいないようだという。軍事費削減の煽りを受けているのだろうか。
およそ45万の人口を誇るムルマンスクも、夏期が過ぎて一日中太陽が出ない冬のシーズンに入ると、漁業や鉱山で働く出稼ぎの人々がこの地を離れるため、人口が激減するといわれている。
桟橋に16時過ぎに到着した我々は、早速、原子力砕氷船「ヤマル号」に乗船する。