先日、長野県の伊那市高遠町にある「六道の堤」(ろくどうのつつみ)を訪ねた。この堤は江戸時代の末期に新田開発を推し進めるために造られた、水路の水を溜めるために造られたものであった。
嘉永元年(1849年)に始まった工事には、この周辺だけでなく広く藩内の農民たちが動員され2年半ほどかけて完成。
この堤の広さは約16000平方メートル、現在も六道原に広がる水田33ヘクタールを潤し、春になれば堤の周囲に咲く満開の桜が水面に映り、南アルプスや中央アルプスの白い雪と美しいコントラストを見せてくれることで、カメラマンにとって隠れた景勝地である。
以前、写真クラブのメンバーから、ちらりと聞かされたことがあったが、すっかり忘れていたところ、知人から改めて教えられ、急いで訪ねてみることにした次第であった。
しかし、タイミングが桜の満開期から数日過ぎていたので大丈夫だろうかと訪ねてみると、幸いまだ花は咲き誇っており、散り始めた花弁が湖面を覆っていて、このタイミングならではの絵になる風景を撮影させて頂くことが出来た。心に残る作品の一枚となった。
ただ当日は空が多少曇っていた為、アルプスを背景にした景観が撮れなかったので、来年再挑戦してみようと思っている。「六道の堤」からの帰り道、有名な「高遠城跡」に立ち寄ることにした。そこも又明治8年(1875年)頃に移植された桜の古木が毎年美しい花を咲かせることで有名な地であった。
またそこは、山梨に住む人間にとって縁のある武田信玄公の5男・仁科五郎盛信の城でもあった。天正10年(1582年)織田信長軍に攻められた盛信は降伏を勧める僧の言を受け入れず、三千の兵を率いて雲霞(うんか)の如
く押し寄せる大軍と戦い、壮烈な戦死を遂げたのである。
この時、城主盛信は腹をかき切り、自身の手で腸を壁に投げつけて果てたと古文書は伝えている。その後、武田家は程なくして滅びることになるのだが、高遠城での戦いは、かの強大さを誇った武田家の最後を飾る戦いの場となったのである。
徳乃蔵へご来館頂ける方にはA2サイズの拡大写真を見て頂こうと思っていますので、お楽しみに。