玄海町長再稼働に同意
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福島原発の惨状 経済産業相の安全宣言など何の保証にもならないのだ
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佐賀県玄海町の岸本英雄町長が再稼働に同意した4日、鹿児島県薩摩川内市の岩切秀雄市長は町長の判断自体については「いい悪いとは言えない」と評価を避けたものの、川内1号機の再開条件である(1)九電の安全対策(2)玄海原発の運転再開(3)国の住民説明会(4)市議会の同意の一つがクリアされたとして、再開容認の姿勢を一段と鮮明にした。
このように、原発を持つ市町村長は玄海町の町長の再稼働同意を皆心待ちしているのである。なぜなら、再稼働の同意はしたいものの、我が身が
批判の矢面(やおもて)に立つことを避けたいからである。一方、立地市町村の周辺の自治体は再稼働に対し
どのような考えているのかというと、その多くが強い懸念を持っており、再開に同意すべきでないと考えているようである。
現に、玄海原発から最短12キロの佐賀県伊万里市の市長や、玄海町に隣接する唐津市の市長、福岡県糸島市の市長などは市民の不安が払拭されておらず、このままの再稼働は大変心配であると述べている。
これが正直のところであろう。
先日、講演会で札幌に行った際に北海道新聞を目にしたところ、北海道電力の泊(とまり)原発に関する周辺住民の意識調査の結果が一面トップに掲載されていた。安全性に不安を持っている人の割合は88%、廃止を求める人の割合は60%となっていた。
周辺住民の意識を反映したこうした調査結果を見ると、もしも、交付金による税優遇や住民の就職の利点がなければ、立地市町村の住民の廃止を求める割合は80%〜90%に達するはずだ。
事故による危険度は周辺地域より遙かに高くなるからである。
ということは、岸本町長だけでなく、町長の下した判断を認める玄海町の住民は、金のために我が身を売っているということになってくる。と同時に、自分たちの都合のために周囲の人たちが
、どれだけ不安になろうが危険にさらされようが、それは構わないということでもある。
まさに、「金さえ入れば」「自分さえよければ」「今さえよければ」ということである。何とも情けない話である。安全神話がまかり通っていた福島原発事故以前ならいざ知らず、
恐ろしくも悲惨な原発事故と遅々として進まぬ復旧工事を目(ま)の当たりにしているばかりか、事故発生の要因となった地震や津波などの自然災害が猛威をふるい始め、かってない巨大災害が
地球規模で発生し始めているというのにである。
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こうなってからでは遅いのだ!
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脱原発のドイツでは
脱原発にかじを切ったドイツでは、日本の福島原発の事故直後に運転を停止させられていた7基の原発は、そのまま閉鎖されることに
なり、2024年の原発全廃に向けて動き出している。そうした中、当然原発の立地市町村でも日本と同様の問題が生じているはずである。その点はどうなっているのだろうか。
原発が立地するドイツ北部の人口8000人のシュタットラント町は、町の予算額12億円の30〜40%を原発を運営するエーオン社からの営業税でまかなっている。原発に雇用されている住民は下請けを含めると700人。
つまり、シュタットラント町は玄海町と何ら変わらない条件下にあるのである。ところが、朝日新聞の取材に応じた町長は、冷静に「日本で事故が起きたとき、こうなることは明らかだった」と
語っており、覚悟はできていたようである。また。南部のネッカー・ウエストハイム町の町長も、「脱原発の議論は以前から続いており、いつか終わりがくることは分かっていた」と淡々と語っている。
これが、ドイツと我が国の違いである。ドイツの国民には「金さえ、今さえ、自分さえ」の考えが我が国より少ないということのようである。残念ながら
、そうとしかいいようがないではないか。それに追い打ちをかけているのが、政治家のレベルの低さと、国民全体に蔓延している
「全てが他人事」の風潮である。
玄海町の町民が自己中心主義に立つなら、県民全体の大局的観点に立って最終判断を下すのが、古川康佐賀県知事の役目である。ここで思いとどまってもらわねば、国内の点検中の原子炉は一斉に稼働を始めることに
なってしまう。
幸い知事は、経産省の原子力安全・保安院が追加の安全対策として、安全検査「ストレステスト」を近く実施することを表明したことを受けて、7月中旬を予定していた玄海原発の運転再開の判断時期について、大幅に遅れる可能性を示唆した。
反対のハガキを出すのは今をおいてない。どうぞ一人でも多くの方が古川知事宛に再開反対の強い意思表示をして欲しいものである。今求められているのは傍観者からの脱却である。「後悔先に立たず」とならぬために。
佐賀県県庁 : 〒 840-0041 佐賀県佐賀市城内一丁目1番59号
古川康知事
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