東日本大震災の津波で倒れた被災地の松を使った護摩木を京都の大文字焼きで燃やすはずだったのが中止されたことに対し、「被災地の思いをないがしろにした」とか「風評被害を広げた」などと批判する多数の意見が、京都市に寄せられた。
その結果、犠牲者の氏名や復興の祈りが書き込まれた護摩木はすべて地元の高田市で、迎え火として焚かれた。しかし、京都市の市議会議員らから「風評被害を広げ、京都の信用失墜にもつながる。観光にもマイナス」との指摘が出され、別の松の木500本を16日の大文字焼きで使うことになった。
ところが、昨日のニュースを見ると、燃やす予定の松の木の表皮部分から放射性セシウムが検出されたため、再び使用が中止されることになったようである。前回の護摩木からはセシウムはまったく検出されなかっただけに、なんとも残念なことである。
それにしても、これだけ焚く、炊かないともてあそばされては、高田市の被災者はたまったものではない。これではまるで被災地やその周辺地の放射能の危険性を世間に広めたようなもの
で、最も留意しなければならない風評被害を全国にばらまいてしまったことになる。現地の人たちの心情は察するに余りある。
護摩木から検出されなかったセシウムが、なぜ松の木から検出されのか? その理由は単純で、護摩木は木の皮をはぎ、さらに祈願を書きやすくするためにカンナをかけて、平らにしたものである。一方、今回問題になった松の木は、その表皮を測定したわけであるから、測定数値が違ってきて当たり前である。
だから、皮をはいで持ち込んでいたらさして問題はなかったはずである。それに、今回検出された1キロあたり約1000ベクレルという値は、一見大きそうに見えるが、薪(まき)全体から見れば、二次災害を恐れるほどの量ではなかったのではなかろうか。
そうでなければ、今回、津波でなぎ倒された松を切り、薪に加工した現地の作業員ばかりか、これから先同様な仕事に従事する人たちは大変なことになってしまう。現に、京大の放射線生物学の内海教授は健康に影響する量ではないのに、今回の処置は残念なことであると述べている。
受け入れる、入れないは五山送り火保存会や京都市の勝手であるが、いやしくもこの位の知識も気配りもなしで、持ち込ませたり、断ったりと軽率な行為を繰り返しているようでは、神ごとに携わる関係者としては失格である。これでは、震災で亡くなられた御霊を慰めるどころか、被災者の神経を逆なでするばかりである。
一連の動きを眺めていると、「おのれさえ良ければ」的な自己中心の考えが見え隠れして、暗い気持ちになってくる。今回の珍事も物事の本性が露わになってくる一例かもしれない。いずれにしろ、これから先、被災地の産品に対する誤解や、さらなる風評被害につながらないことを祈るばかりである。